第七章

すると、その時だった。ユウ君が、信じられないようなことを言い出した。

「ぼくね、もう、お母さんから離れたくないんだ。お母さんといられるなら、死んじゃった方がいい。だから、これ以上、藍姉ちゃんをいじめないで。藍姉ちゃんには、生きていてほしいの」

えっ?それって。どういうこと?それって、つまり・・・。

「ユウ君、何をするつもり?」

藍が叫ぶと、ユウ君は、無理やり作ったような笑みを浮かべて言った。

「藍姉ちゃん、ありがとう。ぼく、お母さんのところへ行くね!」

まったく現実感がない気がした。

ユウ君は、死ぬということが、どういうことかわかっているのだろうか?

まるで、駅に人を迎えにでも行くような気軽さが、逆に藍を恐怖におとしいれた。

そして、気づいた。

本当の死神は、ナナではない。本当の死神は、自ら死を求めてしまうユウ君の心の中にこそいるのだと。

だからこそ、ユウ君の心を変える必要があった。

ゲームのように、剣で戦うのでもない、銃を使ってやっつけるのでもない、形のないものとの戦い。

そう、真の敵には、形がない。色もない。臭いもなければ味もない。

確かにあるのに、何もない真っ暗なもの。そんなつかみどころのない敵と、藍は、戦わなければならないのだ。

「待って、ユウ君!何をするの?」

いきなり走り出したユウ君を追いかけて、藍もまた、走り出した。

が、走る距離は、ほとんどない。

ユウ君は、濁流となった目の前の川に、後先かえりみず飛び込んでしまったのだ。

「ああっ!」

絶望的な悲鳴が、藍の口からもれた。

ユウ君の体は、一度、茶色く濁った水の中に沈み込み、それから、すぐに浮き上がった。その流される速さは、藍の全力疾走よりも早い。

こうなったら、自分も川に飛び込むしかない。川に飛び込んでから泳いでいけば、ユウ君に追いつける可能性はある!

いや、それは、おぼれている人を助けようとして、自らもおぼれてしまう人の発想だった。これと同じ発想で、蒼は、ナナを助けようとして川に飛び込み、そして、一緒に死んでしまった。

「藍、だめっ!」

後ろから、母さんの絶叫が聞こえたが、その時は、もう手遅れだった。

藍は、川岸の地面を蹴ってカッコよく飛び上がり・・・、というつもりだったけれども、実際には、濡れた草に足を取られて真っ逆さまに川に落ちてしまった。

「うううううっ・・・!」

真っ暗な水中が、こんなに怖いものだとは知らなかった。

藍は、特別、運動神経がいいわけではなかったが、めちゃくちゃ悪いというわけでもない。どちらかと言うと、泳ぐのは得意な方だったから、川の中でも何とかなるかもという甘い考えを持っていた。

だが、それは、本当に甘い考えだった。

豪雨によって濁流となった川は、まさに怪物だ。この怪物に対しては、人間の力などないに等しく、ただ、その凶暴な力に翻弄されるしかない。

起動している洗濯機の中に落ちた子猫が、どうなってしまうかを想像してみれば、わかるだろう。

「うぐぐぐぐっ!」

もう、声も出なければ、息もできない。ひたすら苦しいだけで、自分が、今、どこにいて、どんな状態になっているのかさえわからない。

死ぬ!

はっきりと、そうわかった。

そうなのだ。これこそ、藍とユウ君が、同時に命を落とす原因だったのだ。

二人は、病気になるのでもない、事故にあうのでもない、自らの意志で川に飛び込み、そして、死ぬ運命にあった。

その姿は、ナナと蒼が川でおぼれ死んだ時と同じで、今、得体の知れない力で身動きが取れないこの二人の死者は、自分の大切な人が、自分と同じ運命をたどろうとしていることに戦慄を覚えた。

「藍っ!藍ィィッ!」

蒼が絶叫する傍らで、ナナも泣き叫んでいる。

「だれか!だれか、ユウを助けてっ!」

二人の願いもむなしく、藍とユウ君の体は、まるで木の葉のように波にもまれながら、瞬く間に下流へと流されていった。

ただひとつの幸運は、どうしたわけか、藍の方がユウ君よりも速いことだ。恐らく、川がわずかに蛇行していることが、水流の速さに影響しているのだろう。

ただし、川の流れは、平面だけではない。上下にも動いているのだ。

だから、藍とユウ君の体は、浮かんだかと思えば沈み、沈んだかと思えば浮かび上がるという動きを繰り返していた。

そうしている間にも、泥水が口に入り、体が冷え、体力が奪われていく。何より、満足に呼吸ができないのだから、二人の命は、風前の灯火と言ってよかった。

それでも・・・。

「ユウ君!」

藍は、水面に顔が出るたびに声を張り上げた。

もはや、意地というか執念である。ユウ君を、絶対に死なせはしないという執念が、藍の命を、かろうじてつなぎとめていた。

こんな生死の境にある状況だというのに、藍の頭は、妙に冷静になって、思いを巡らせていたのだ。

川へ飛び込む前に、ナナが言っていた言葉の意味を。

ナナは、断言した。藍がユウ君のためにあれこれするのは、所詮、自分が助かりたいからだと。

けっして、ユウ君のためじゃない。ユウ君のことをいちばん大切に思っているのは、母親である自分なのだと。

確かに、それは、当たっていた。

藍が、自らが助かりたいためにユウ君と関わってきたことは、まぎれもない事実である。

でも、今はどうか?

藍がユウ君を追いかけて川に飛び込んだのは、けっして、自分ひとりのためだけではなかった。

藍は、純粋に思っただけだった。目の前でおぼれている小さな男の子を、ただ助けたいと。

そこに理由などない。姑息な作戦とか思惑とかも、存在しない。

生と死の狭間に立たされた時、人間は、シンプルになれる。余分なことは考えない。

だから、思いが通じる。

藍がユウ君に追いついたのは、ほとんど奇跡と言ってよかった。

藍は、力なく水面に浮かんでいるだけのユウ君の体を自分のもとへ引き寄せ、必死に呼びかけた。

「ユウ君っ!ユウ君っ!生きてる?」

「・・・うう」

「しっかりして、ユウ君!岸に向かうよ!」

はっきり言って、岸に向かえる体力も技術も、藍には残されていなかった。激しい波に打ちのめされ、たたきのめされ、藍の意識も遠くなりつつある。

体が、何かにまとわりつかれているように重くなってきた。

もう、だめだ・・・。

テレビや映画のように、おぼれている子供を助けるなんて、中学生の少女にできるわけがなかった。

このまま、わたしたちは死ぬ。

蒼やナナが、そうであったように。そして、火災現場で子供を助けようとした父さんが、その子供とともに命を落としたように。

父さん・・・。

父さん、ごめんね。わたし、間違ってた。

無理だとわかっていながら、小さな子供を守ろうとして死んでしまった父さんのことを恨んでた。

どうして、わたしや母さんを置いて逝ってしまったの?そうならないよう、ビーズの首飾りをプレゼントしたのに、なぜ、わたしの気持ちは、聞き入れてくれなかったの?そう思ってた。

でも、それは、違っていた。

父さんは、目の前にある、かけがえのない命を守ろうとしたんだよね?今のわたしと同じだったんだね。

蒼も、同じ思いでナナさんを助けようとしたんだと思う。

そうした願いは、どれもかなわなかったけど、だからって、意味がないことだったとは、わたしは思わない。

父さんは、立派な消防士で、わたしの尊敬する大好きな父さんだった。

わたしも、もうすぐ父さんのいるところへ行くからね。そしたら、迎えに来てね。

母さんひとりを残していくのは、とても心残りだけど、母さんなら、わかってくれる。

だから・・・。

真の闇が、藍の視界に降りてきた。

これが最後。

この世界・・・、母さんの笑った顔、朝起きた時に見える窓からの日差し、学校へ通う途中に咲く朝顔の花、クラスメイトのはしゃぐ姿、それを眺めている橙真とわたし・・・。

今、全てが終わる。わたしを作り上げている愛おしいもの、尊くかけがえのないあらゆるものに、ここで終止符が打たれる。

が、その時。

「だから?」

藍は、耳もとではっきりとした人の声を聞いた。とても、幻聴とは思えない、はっきりとした声を。

「え?」

「だから、このまま死んじゃってもいいと思っているのかい?」

「・・・・・」

「藍、それは違う。おまえは、父さんとは、別の道を進むんだ。そこに、おまえの人生の意味があるんだよ」

「・・・・・」

藍は、言葉を失った。

目の前には、あまりにも懐かしく会いたかった人の姿がある。

「父さん・・・?」

藍は、自分の声を確かめるように、恐る恐る尋ねてみた。

父さんが、藍のよく知る優しい笑みを浮かべて、こちらを見ている。格好は、最後の任務中に着ていた防火服のままだ。

その瞬間、藍の周囲の環境に変化が起きた。

激しい濁流の音も聞こえない。満月をさえぎる、真っ暗な雲も見えない。

藍は、まさに何もない空間にいた。

立っているのでもなく、座っているのでもなく、浮かんでいるのでもなければ、沈んでいるのでもなかった。

立体的な空間という概念が、そこにはなかった。

藍は、ただ、藍であった。

人間であったことも忘れて、というより、どんな物質にも置き換えることができないような波の広がりとなって、藍は存在した。

ただ、ひとつ、父さんという認識だけがあった。藍というもの以外何もない世界の中に、ただひとつだけ存在しているもの、それが、父さんだった。

父さんは、言った。

「どうしたんだい?鳩が、豆鉄砲を食らったような顔をしているよ」

父さんが笑う。それにつられて、藍も笑おうとした。

なのに、藍の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。目がどこにあるかもわからない状態の中で、涙だけは、はっきりと涙と覚知できた。

「父さん!」

父さんの胸と思われるものに飛び込んだとたん、藍は、自分が中学生で、父さんと母さんの間にできた子供であることを思い出した。

同時に、失われていた体がよみがえってくる。

血と肉。藍という人間を構成していた要素のひとつひとつが集まって、波から実態へと変わっていった。

それから後は、ただ、泣きじゃくるだけだった。

ああ、父さんだ。本当に父さんがいる。会いたくて仕方なかった父さんが、今、藍の目の前にいる。

「父さん!父さん!」

自分でも、他に言葉はないのかと思った。今はただ、何も考えることなく父さんに抱きついていたかった。

もう、絶対に離すものか!このまま、母さんのところまで連れていって、昔みたいに三人で暮らすんだ。鼻息も荒く、ひとりで、そう決めていた。

「ごめんよ、ずいぶん、寂しい思いをさせてしまったね」

父さんが、藍の頭をなでながら言う。

「本当だよ!母さんとわたしが、どんな気持ちでいると思ってるの?ひとりだけ、手の届かないころへ行っちゃうなんて、ひどいよ!」

藍は、一生懸命、怒った。

うれしくて、うれしくて、うれしすぎて怒った。

もう、怒っているのか、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、それすらも、よくわからないまま、泣いて怒った。

「ああ、悪かったよ。本当に悪かった。でも、父さんは、おまえや母さんのことを忘れたことは、一度もなかったよ」

「本当?」

「もちろん、本当だとも。だから、閻魔大王様にお願いして、おまえを救おうと思ったんだからね」

「うん。その話、蒼から聞いた」

「父さんは、先に死んでよかったとさえ思ってるんだ。でなければ、おまえが川に落ちて死ぬのを、父さんは黙って見ていなければならなかった。今みたいにね」

それを聞いて、藍は、はっきりと思い出した。自分は、今、川に飛び込んで、ユウ君とともに死の淵に立たされているのだということを。

でも、これは、裏を返せばチャンスかもしれない。このまま死んでしまえば、父さんのもとへ行くことができる。

「父さん。わたし、父さんのそばに行っちゃあだめ?」

「何を言ってるんだ。藍が父さんのそばに来ちゃったら、母さんは、どうなる?藍が死んだら、母さんは、泣きすぎてどうかなってしまうよ」

「・・・・・」

「おまえは、母さんのそばにいてあげなければならない。これは、父さんからのお願いだよ」

父さんは、少し困ったような顔をして言った。

やっぱり、そうなのか・・・。わたしたち家族は、もう、一緒に暮らすことはできない。

父さんは、死んでしまっているのだ。これだけは、どんなに閻魔大王様にお願いしてみても変えることはできない。

「勘違いしてはいけないよ。父さんは、おまえのそばにいる。生と死を境に離れ離れになっているように思うかもしれないが、そんなことはない。父さんは、おまえのそばにいる。いつも、おまえを見守り、おまえが幸せであることを祈っているよ」

父さんは、そう言うと、今度は自分から力強く藍を抱きしめた。そして、感慨深そうに何度もうなずきながら、ひとりごとのように言葉を続けた。

「大きくなったなあ。本当に立派になった」

藍の成長に目を細め、うれしそうに息を吐く。それから、娘の両肩に手を置いて、諭すように続けた。

「おまえは、ひとりじゃないんだよ。父さんや母さんの他にも、おまえのことを大切に思ってくれている人たちがいる。橙真君だって、そうだろ?」

父さんから急に橙真の話題が出て、藍は、思わず赤くなった。それを見て、父さんは、温かく笑った。

「そうだ、それでいいんだ。その気持ちを大切にするんだよ。橙真君は、きっと、おまえの力になってくれる。父さんには、全てわかるんだ。どうだ、すごいだろ?今の父さんは、スーパー父さんなんだ」

いたずらっぽく笑う父さんを見上げて、藍も笑った。

そうだった。昔から、父さんは、よく冗談を言う、茶目っ気のある人だった。

父さんは、変わっていない。例え死によって分断されようとも、わたしたち家族の絆は、何ひとつ変わることはない。

「さあ、行きなさい。すぐそこまで、迎えが来ているからね」

「父さん、もう、行っちゃうの?」

「言っただろ?父さんは、どこにも行かないよ。いつも、おまえのそばにいる。おまえが、幸せに生きていく姿を、父さんは、いつまでも見守っているよ」

そう言われても、やっぱり、藍はさみしかった。そばにいてくれたとしても、こんなふうに言葉を交わすことは、もう、できないのだから。

藍は、もう一度、父さんの胸に飛び込んだ。

父さんの胸は大きくて、幼いころに抱っこされていた時の、あの安心できる胸のままだった。

本当は、ずっとこのままこうしていたかった。すると、父さんが、藍の思いを代弁するように言った。

「ああ、いつまでも、時間が止まっていてくれたらなあ」

父さんの目に涙が光っている。

「けれども、藍には、藍の進むべき道があるんだ。わかってくれるだろ?」

「・・・・・」

「おまえは、生きなければならない。その男の子のためにもね。本当によくやった。父さんは、おまえが誇らしいよ」

藍は、父さんの言葉にハッとなった。

そうだ、ユウ君がいる。ユウ君を死なせるわけにはいかない。白井さん夫妻のためにも、そして、ナナのためにも、ユウ君を守り抜かなければ!

「藍、生きるんだ。生きて、自らの運命を変えて見せなさい!父さんは、いつも応援しているよ。母さんによろしくな。二人で力を合わせて、父さんの分まで生きてくれ!」

「父さん!」

父さんの温もりが、ゆっくりと遠ざかっていく。

藍は、声を限りに叫び両手を伸ばしたが、もう、父さんには届かなかった。

だが、代わりに、伸ばしたその手をがっしりとつかむ者がいる。その手は、父さんのように力強く、藍の全身を自分の方へと引き寄せた。

「藍!」

うううううっと、体の苦しみが、一気に戻ってきた。

もう、だれよ? せっかく、父さんに会えたっていうのに、ごちそうを食べる直前で夢から起こすような真似しないで!

「・・・もう、お腹いっぱい。むにゃむにゃ」

「バカ!何、寝ぼけてやがる!藍、しっかりしろ!」

「へ・・・?」

「おれがわかるか?」

思いっきり怒鳴られて、ようやく意識がはっきりした。

「うぐっ」

「口を開けるな。泥水が入るだろ?もっと、おれによりかかれ。絶対に手を離すなよ!」

「・・・橙真?」

「そうだよ。こいつがなけりゃ、おれもおまえも、とっくに水の底に沈んでたぜ。いいか、このまま、岸に向かっていくぞ!」

気がつくと、藍たちは、上流から流れてきた倒木につかまっている。かなりの大きさの倒木で、横にすると、その長さは、川幅の三分の二ほどもある。

そして、前方に見えてきた橋の真ん中には、運よく橋げたがあった。

「このまま、こいつをあそこに引っかけるぞ。衝撃があるから気をつけろ!」

橙真が予想した通り、倒木が橋げたにぶつかる衝撃は、自動車事故と同じようなものだった。

残された藍のわずかな力では、倒木につかまっているのは無理かと思われたが、橙真が、藍とユウ君の二人を自分の懐に強く抱き寄せてくれたため、何とか、流れに飲み込まれずにすんだ。

倒木は、橋げたと橋のたもとのコンクリート壁に引っかかり、天然のダムのようになっていた。

「しっかりつかまっているんだぞ!ユウ君も離すなよ!」

橙真は、そう言いながら、片腕で藍とユウ君を抱え込んだまま、もう一方の腕を器用に使い、倒木に沿って岸へと移動を始めた。

このころになって、川伝いに懸命に走ってきた母さんと、ようやく得体の知れない術から解放された蒼たちが、藍たちのもとに追いついた。

「藍っ!」

母さんが、岸辺で必死に手を伸ばしている。蒼やナナたちも加わり、総出で藍とユウ君、橙真の体を岸に引き上げた。

濡れた草むらの上で四つんばいになったとたん、藍とユウ君の口から泥水が吐き出された。

「藍、しっかり!」

「ユウ!ユウ、大丈夫?」

母さんが藍を介抱する隣で、ナナもユウ君の背中をさすって、一生懸命、声をかけている。

「藍!藍!死なないで、藍っ!」

半狂乱の母さんは、看護師としての冷静さもかなぐり捨てて、娘の背中にすがりついている。

「うっ・・・、大丈夫よ・・・。死んでないから」

藍は、一通りの泥水を吐き出してしまうと、ハアハアと荒い呼吸を繰り返しながら、かすれた声で答えた。

「そう・・・生きてる。わたし・・・まだ、死んでないよ」

ユウ君は?

そう思って顔を上げると、ユウ君も、しっかりと目を開いてこちらを見ていた。体を震わせてはいるが、大丈夫、生きている!

「ユウ君・・・」

声をかけた途端、ユウ君は、藍にしがみついてきた。

「藍姉ちゃん!藍姉ちゃん、ごめんね!」

いつもの物静かなユウ君からは考えられない、びっくりするくらいの勢いだった。

「ぼく、お姉ちゃんを助けたかったの。ぼくが死ねば、お姉ちゃんが助かるんだって思ったんだけど、ぼくと一緒にお姉ちゃんも死なせちゃうところだった」

それを聞いて、藍は、愕然となった。

こんな小さな子が、自分の命を懸けて、わたしを守ろうとした?

ユウ君が、お母さんと一緒にいるために、死にたいと考えていたことは、間違いない。けれども、藍を助けたいという思いが、その気持ちを後押ししたことは事実だった。

反対に、藍も、父さんのもとへ行きたいと考えた。自分が死ぬことでユウ君の命が救われるのなら、それでもかまわないと思ってしまった。

お互いがお互いのことを考え、また、会いたい人とずっとこのままでいたいと願い、それぞれ死に至ろうとしたが、それを、藍の父さんが阻止した。

父さんだけではない。橙真や母さん、それに、レインボーチームのみんなが、藍とユウ君に生きろと願ってくれた。

「わたしこそ、ごめんね。わたしが、もっと、しっかりしていたら、ユウ君をこんな危険な目にあわせずにすんだのに」

藍は、泥だらけになったユウ君の背中をさすりながら、つぶやくように言った。

すると、そんな二人を見守っていたナナが、がっくりとうなだれた様子でこぼした。

「だめだ・・・。わたしには、できない。こんな子を殺すなんて、絶対にできないよ。たとえ、閻魔大王様の命令でも、従えるはずがない・・・」

それは、ナナの本音だった。

ナナはナナで、ずっと葛藤し続けていたのだ。

自分の子供を守るために、他人の子供を殺めるなんて、どう考えても狂っている。子供を置き去りにして自殺した罰とはいえ、閻魔大王様は、なぜ、これほどまでに過酷な任務を自分に与えたのだろうと。

「閻魔大王様、わたしには、できません!命の危険も顧みず、わたしの子供を助けてくれた子に、どうして、危害が加えられましょうか?」

ナナは、意を決したように、曇天の空に向かって声を張り上げた。そこに、もちろん、閻魔大王様の姿はなかったが、何かが呼応するようにうなったのを、その場にいた全員が感じ取った。

「おい、なんか、おかしいぜ。何かが、こっちをにらんでいるような」

珍しく、アカ子がビビったような調子で言えば、

「恐ろしく強大な力が、空に充満しているでござるよ。みんな、気をつけるでござる」

ムラサキ殿が、刀の柄に手をかけて言った。

確かに、空に何かいる。それは、うねうねと波打つように動き回り、風塵を巻き上げ、稲妻を引き寄せながら、少しずつその姿を現した。

トラックのタイヤほどもある、鋭い目。ブルドーザーを思わせるような、牙の生えた口。

全長は、百メートルを優に超えているだろうか?針金のようなたてがみを揺らしながら、今にも襲いかからんばかりに、上空から藍たちを見下ろしている。

「りっ、龍・・・?」

藍は、文字通り腰を抜かした。幽霊、死神、鬼と、今や何が出てきても驚くことのない藍だったが、さすがに、これには度肝を抜かれた。

でかい!とにかく、でかすぎる!

しかも、龍の頭の上には、二つの髭をつかんで立っている謎の人影が見える。それは、プロレスラーも舌を巻くほどの大きな体格をしていたが、人ではなかった。

「あっ!」

ユウ君が、びっくりした声をあげたのも、無理はない。だって、その人影の正体は・・・。

「マイティロボだ!」

そう、龍の頭上からこちらをにらみつけているのは、あろうことか、いつの間にかユウ君のポケットからこぼれ落ちたマイティロボだった。

ロボットだから表情はなく、にもかかわらず、その全身からは、この世の生きとし生けるものを皆殺しにせずにおくものかという殺気が放たれている。

「冥界の王である閻魔大王様の命を聞けぬというのであれば、もはや、おまえに死神の価値はない。全員まとめて、跡形もなく焼き尽くしてくれようぞ」

頭にガンガン響くような大音声で、そう宣言されてしまった。

ま、待って、待って!突然わきから飛び出してきて、あなた、いったい何なのよ?

マイティロボって、正義の味方じゃなかったの?最後の最後に来て、こんなのに襲われたら、生き残れるはずないじゃない!

ルール違反もいいところだと、藍は思った。

幽霊や死神が出てくるホラー映画だと思って見ていたら、いつの間にか、怪獣映画になっていたって感じ。

ホラーの中でなら、主人公たちを翻弄できる幽霊だって、怪獣相手では、いくらなんでも分が悪い。異種格闘戦でありすぎる。

「おのれ、化け物め!このムラサキが、成敗してくれようぞ!」

おおっ!ついに、登場、ムラサキ殿!

藍が視線を空から地上に移すと、ムラサキ殿が低く身構えて、今にも龍の首をはねんと、相手のすきをうかがっている。

「ムラサキ殿、かっこいい!そんな龍なんか、やっつけちゃって!」

藍の声援を背に受けて、ムラサキ殿は、「やあっ!」と宙に飛び上がった。

きっと、あの鞘の中には、何でも切り裂く名刀が収められているに違いない。

サムライと龍の一騎打ち。キイィィィン!と稲妻が炸裂したあと、片膝をついて倒れかかるサムライ。ガッハッハッと高らかに笑う龍。

けれども、それもつかの間。やられたのは龍の方で、真っ二つになって、ジ・エンド!

そんな型通りの決着が見られるものとばかり、藍は、思っていた。

が、事態は、藍の予想を大きく裏切った。

「ああっ、だめだって、ムラサキ殿!」

最初に叫んだのは、蒼である。叫んだのには、わけがあった。

空中でサッと抜いたムラサキ殿の刀には!

刀には・・・?

「あちゃあ~」

蒼が、思いっきりしかめっ面をした。

名刀であるはずのムラサキ殿の刀には、なんと、刀がついていなかった。かわりに出てきたのは、花束である。

「んがぁ?」

あごが外れそうになっている藍を横目に見て、蒼がため息をついた。

次の瞬間。

「ぎょえぇぇぇぇぇっ!」

巨大な龍の尻尾にぴしゃりと打たれて、ムラサキ殿は、空の彼方へ飛んで行った。星になっちゃったかな?と思うくらい、遠くまで。

「もう、だから、だめだって言ったのに」

「蒼、ムラサキ殿って、戦国時代から連れてきたサムライじゃないの?」

「全然、そんなんじゃないよ。あの人、生きていた時は、手品師だったんだよ。サムライの格好して、笑いを取る手品師。うけなくてねえ。わたしやナナのいた施設にも慰問で来たことがあったけど、大ブーイングだった。下手くそなんだもん」

「・・はは・・・ははは」

もはや、笑うしかない。

笑いが取れなかった手品師が、こんな形で笑われるなんて、悲惨すぎる。

いったい、何のために出てきたのよ、あの人?もう、いちばん頼りにしていたのに、黄門様以上に頼りにならないなんて!

その黄門様とミドリちゃんは、この最悪の状況の中、ナイスタイミングというか、その逆というか、とにかく、白井さん夫妻を連れてきた。

なんと言って連れてきたのかはわからないが、いきなり、巨大な龍を目の当たりにした二人。

「おわっ?」

たまげている黄門様とミドリちゃんに抱き抱えられるようにして、たちまち意識を失ってしまった。

無理もない。

藍は、少しずつ段階をふんで、蒼から始まるあの世の住人たちと遭遇していったが、いきなり、ラスボスを見せつけられたら、卒倒して当然である。

しかも、ラスボス、でかいし。

「あっ、お父さん、お母さん!」

驚いたのは、その時のユウ君の反応だった。

今、お父さん、お母さんって言った?

藍は、ユウ君のその言葉を聞き逃さなかった。

ユウ君は、とっさに白井さん夫妻のもとへ駆け出し、仰向けになって草むらに横たわる二人の顔を、心配そうにのぞき込んでいる。

その後ろ姿を見守るナナの顔にも、驚きの表情が現れていた。そこには、あきらめにも似た自虐的な苦笑が潜んでいるように、藍には思えた。

「お父さんとお母さん、大丈夫?死んじゃってない?」

不安がるユウ君の頭をなでながら、黄門様が、諭すように言った。

「ああ、心配いらんて。ちょっと、びっくりしすぎて気絶しとるだけじゃ」

「すぐに目を覚ます?」

「うん。でも、このでっかい龍を倒しておかないと、また、気絶してしまうよ」

ミドリちゃんが、黄門様の後を続けて言う。

そうしている間にも、龍は、縦横無尽に暴れまわり、今は、アカ子との間でタイマンを張っている。

「ヤロウ、でかいからって、いい気になってんじゃねーぞ!」

今となっては、ムラサキ殿よりもはるかに頼りになるアカ子は、少なくとも、口では負けてはいなかった。

鬼のように赤い髪を振り乱して、「てめえ、潔くステゴロで来いやーっ!」とか、「チョーパン決めて、血まみれにしてやるぜ!」とか、なんだかよくわからない業界用語を乱発している。

ちなみに、「ステゴロ」とは素手で戦うという意味で、「チョーパン」は頭突きのことである。どちらも、よい子のみんなは使ってはいけない不良言葉なのだが、幽霊の口から出ると、さらに違和感がある。

だいたい、自分はチェーンを持っているくせに、相手に素手で戦うことを望むのは、どうかと思うのだが?

「ぎょえぇぇぇぇぇっ!」

それなりに時間を稼いでくれたアカ子ではあったが、結果は、ムラサキ殿と同じだった。龍の尻尾でぴしゃりとやられて、空の彼方へ。

まあ、ミサイルすらはじき返しそうな巨大怪獣相手に、チェーンひとつで挑むのだから、結果は、初めからわかっていた。

ただ、その勇気だけは、褒め称えてあげたい。

さらば、アカ子。

さらば、ムラサキ殿。

バカは、死ななきゃ治らないとは、昔の人は、よく言ったものだ。

「いやいや、ふたりとも、初めから死んでるから。バカは、認めるけど」

蒼が、ひとりごとのように言った。

「ナナ、こうなったら、二人がかりでやるしかないよ。龍はともかく、あの上に乗ってるやつだけなら、何とかならない?」

「何とかって、どうやって?」

「わたしに考えがある。要は、相手を眠らせちゃえばいいわけよ。ナナは、そこであいつを真っ二つにしてくれればいい」

そんな蒼の提案を聞いた藍には、ハッと思いあたることがあった。

眠らせる?

蒼は、意を決したように飛び上がると、龍の頭に乗っているマイティロボに話しかけた。

「ねえねえ、あなた。強いのは認めるけど、ちょっと一息入れたら?別に慌てなくたって、こっちに勝ち目はないんだし」

そう言って、蒼が懐から取り出したもの。

「栄養ドリンク・・・ですか」

およそ、蒼のやろうとしていることが予測できていた藍は、そのアイデアの貧弱さに、全身から力が抜けていく思いだった。

あれって、閻魔大王様の公文書館に侵入した時、鬼たちを眠らせたやつだよね?

鬼たちは、疑うこともなくあれを飲んで、あっという間に寝ちゃったって言ってたけど、まさか、今、ここで、その手はないでしょ?

そう思った藍だったが、マイティロボが、「おっ!おまえ、なかなか気が利くな?」とか言って、ちょっとだけ開いている口の隙間からあっさりと栄養ドリンクを飲みほしたので、さらに驚いてしまった。

「・・・・・」

隣で、じっと待っている蒼。

「・・・まだ、何か?」

「う~ん、なんとなく眠くならないかな?」

「ならない。まあ、少しいい気分になってきたような気が・・・ぐがぁぁぁぁ!」

あごが外れそうになったのは、今日だけで、これが二回目である。

マイティロボが、会話の途中で、いきなりいびきをかき始めたのを見て、藍のあごは、今や地面に落ちてしまいそうになっていた。

しかも、マイティロボが眠ってしまったとたん、龍の方も、急にへなへなとしてしまって、明らかに力が出ない様子である。

「効いた!」

蒼が、手をたたいて歓声をあげた。さっきまでとは打って変わって、悪魔ものけぞるほど凶悪な顔をしている。

「さあ、ナナ。思いっきり、スパッとやっちゃって!もう、よみがえらないように!」

この人、本当に緩急の落差が激しい。野球の世界だったら、いいピッチャーになれるはずだ。

蒼は、おちゃらけているようでありながら、肝心なところですごいことをやってのける。この食えないところが、蒼がレインボーチームのリーダーになっている理由かもしれない。

「ようし!行くわよ!」

蒼のかけ声に、ナナも鎌を握り直して宙に飛び上がった。

みんなを抹殺しようとする憎い相手。こういうやつが相手なら、手加減は少しもいらない。

が、しかし!

蒼は、龍の頭に突っ伏しているマイティロボのうなり声を聞いた。

「ううううう・・・」

それは、まるでオオカミの鳴き声のようで、すぐ近くにいた蒼は、ギョッとなった。

「うううううって、ウソでしょ?」

「おのれ、おかしなものを飲ませおって・・・」

マイティロボは、顔を上げて、キッと蒼をにらみつける。

「い、いや、でも、おいしかったでしょ?」

「こんなもので、わしを眠らせられると思ったら、大間違いだ!」

「ひいいっ!」

まさかまさか、睡眠薬を入れた栄養ドリンクが、まったく効かないなんて!

さすがの蒼も、これには驚いたらしく、振り上げた相手の腕を避けるので精いっぱい。

「蒼!」

友のピンチを救おうと飛びかかったナナも、なんと鎌を素手でたたき折られて、なす術がなかった。

「やばい、やばい、やばい!これ、ヤバイよ!」

蒼とナナ、もはや丸腰の二人に戦う力は残されておらず、二人抱きあっておびえるばかり。

「こざかしい真似をしおって、こうしてくれるわ!」

マイティロボが指図すると、龍の大きな口が開いて、そこから炎が!

いや、なぜか炎はなく、台風並みの風圧によって蒼とナナの体を吹き飛ばした。バシッと派手な音を立てて、地面にたたきつけられた二人。

「蒼!」

「お母さん!」

藍とユウ君が、急いで飛びつき、それぞれの体を抱き起こしたが、だめだ、こりゃ。二人とも、目が渦巻きになっちゃってる。

「藍、おまえだけでも逃げろ!ユウ君を連れて、逃げろ!」

橙真が、そう叫んだが、そんなことできるわけがない。みんなを置いて逃げるなんて、絶対にできない。

「いや!逃げたくない!」

「バカ!せっかく助かったのに、こんなところで死んで、どうすんだよ!」

藍の両肩をつかんで、橙真は、必死に説得しようとする。

ありがとう、橙真。本当にありがとう。もう、その気持ちだけで十分だよ。

藍は、泣きたかった。こんなにも、わたしのことを思ってくれる人たちに対して、涙で感謝の心を伝えたかった。

まるで、清流によって泥が洗い流されるように、すうっと心の中にあった雑念が消えていく。

まっさらになった藍の胸の奥にあるのは、ただ、ここにいる大切な人たちを守りたいという素朴な思いだけだった。

その思いは、静かに心の奥底で浮かんでいるというよりは、まっ赤に熱した鉄球のように、メラメラと踊るような炎を燃えたぎらせて、今にも口から飛び出しそうなほどだった。

藍は、覚悟を決めた。

自分ひとりが命を差し出せば、いいだけのことなのだ。

もともと、わたしは死ぬことになっていた。その運命に素直に従えば、ユウ君は生きられる。母さんや橙真を、これ以上、危険な目にあわせなくてすむ。

恐怖に体が震えていいはずだったが、藍は、震えなかった。震えているとすれば、目の前の強大な敵に立ち向かおうとする武者震いだ。

藍は、こぶしを握りしめて立ち上がった。

「これ以上、みんなをいじめるのはやめなさい!本当に欲しいのは、わたしの命なんでしょ?それなら、好きなように奪えばいい!閻魔大王様は、そうすれば、ユウ君の命を助けるとナナさんに約束したんだから」

今は、ここまで。

父さんは、わたしに生きろと言ってくれたけれど、それは、やっぱり、かなわない望みのようだ。

それでも、かまわない。わたしは、負けて死ぬのではない。

こんな龍なんかに、負けるもんか!あの世へ行ったら、覚えていなさい!もっと強力な睡眠薬使って、あんたなんかやっつけてやるんだから!

でも、その前にひとつだけ言っておきたいことがある。藍は、思いっきり息を吸い込んで、マイティロボに怒りをぶつけた。

「でも、わたしは、あなたには従わない。あなたのように、人の運命をもてあそぶ者には、絶対に従わない!ここにいる人たちにも、手出しはさせない!そんな権利、あなたには、ないはずよ!」

藍は、両手をいっぱいに広げると、龍に向かって伸ばした。

その相手を見すえる二つの眼には、どんな敵にも絶対に譲らないという強い力がみなぎっていた。

譲らないのは、自分が愛してきた大切な人々の幸福だ。

この人たちを守るためになら、自分は、喜んで龍に命を与えてやろう。

父さんだって、小さな子供を守るために、自分の命を投げ出した。わたしにだって、同じことができるはずだ。

だって、わたしは、父さんの子なんだから。

母さんが、藍の背中にすがりつく。

同時に龍の口が大きく開いた。その奥に見える赤い炎。これは、父さんの体を燃やした炎だと、藍は思った。同じ炎で自分は死ぬ。

橙真が、その前に立ちふさがろうとする。ユウ君も、何か叫んでいる。

「藍姉ちゃん、死んじゃダメ!」

藍には、そう聞こえた。

藍は、力いっぱい、母さんの体を振りほどき、橙真を脇へと突き飛ばした。

グッと奥歯をかみしめ、目を閉じる。

まっ黒に焦げた醜い死体になるのは、自分だけでいい。

さあ、来い!あんたの炎、思いっきり全身で受けてやる!

父さん、わたしに最後の勇気をください!