こうして、藍にとって、人生最悪の一夜が明け、次の朝がやってきた。
カーテンのすき間から差し込む朝日に、部屋の窓を開ければ、藍の沈んだ気持ちを吹き流すように、ふわっと甘い香りがする。
どこかで、みかんの花が咲いているのだろう。
藍は、この何とも言えない、さわやかな匂いが大好きだ。それで、憂うつな気分を少しだけなぐさめられる。
「おはよう、起きた?」
幽霊から「おはよう」とあいさつされるのも、おかしなものである。気がつけば、蒼は、天井付近にぷかぷかと浮かんでいた。
「おはよう、蒼もよく眠れた?」
「わたしは寝ないの。幽霊だから」
このあたりの理屈、藍には、まだ、よくわからない。蒼は、どこまで人間と同じで、どこから違うのか?
「ずいぶん、泣き腫らしたみたいね。目が真っ赤よ」
「うん・・・」
さすがに反論する気力もなく、藍は、小さくうなずいた。
一晩中起きていたという蒼は、当然、布団に潜り込んで泣く藍を見ていたはずだが、あくまで、気づかないふりをしてくれていたみたいだ。
「まあ、そんなに落ち込みなさんなって。わたしがついているんだから、大船に乗ったつもりでいていいよ」
相変わらず、蒼は、自信満々に言った。もう、能天気と言った方がいい。
でも、蒼の能天気さがなかったら、藍は、もっと深く落ち込んでいただろう。
「さあ、元気出して!今日から忙しいわよ」
「橙真に、なんて言えばいいかなあ?学校が終わったら、ここに連れてこなきゃいけないんでしょ?」
「ありのままの事実を話せば、いいんじゃない?きっと、心配になって家までついてきてくれるよ。『おまえ、大丈夫か?』とか何とか言っちゃって」
蒼は、ケラケラと笑いながらお気楽に言う。
確かに、家に幽霊が出て死の宣告をされたなんて話を聞かせたら、橙真は、びっくりするに違いない。
でも、蒼の予想は、間違っていなかった。
午前中、授業の内容も頭に入らないまま思い悩んでいた藍は、昼休みになって、とうとう橙真に事情を告白した。
すると、橙真は、いつになく真剣な表情になって、こう返したのだ。
「おまえ、大丈夫か?一緒に病院行くか?」って。
「もう、そんなに疑うんなら、わたしの部屋に来なよ。本物の幽霊に会わせてあげるから」
よくよく考えてみれば、藍は、ずいぶん大胆な提案をしていたことになる。家族ぐるみの付き合いのある幼なじみとはいえ、中学二年生の男の子を自分の部屋に呼び込むわけだから。
もちろん、そこには蒼がいるわけだし、蒼が連れてくる仲間もいるはずだ。
でも、幽霊を見ることのできない健全な人の目には、藍と橙真の二人しか映らないわけだし、これは、かなりドキドキなシチュエーションと言っていいだろう。
だが、そんな少女マンガのような、胸キュン妄想をふくらめている場合ではなかった。
橙真とともに学校から帰宅した藍は、自分の部屋のドアを開けるなり、驚きすぎて卒倒しそうになった。後ろから橙真が背中を支えてくれなければ、本当にひっくり返っていたに違いない。
だって、せまい藍の部屋の中には、蒼を含め五人もの幽霊がひしめきあっていたのだ。
五人である!
「あっ、連れてきた、連れてきた。お帰り~っ」
ベッドの上でうつぶせになりながら、コミック本を読んでいた蒼が、明るく藍と橙真を迎えた。キッチンの戸棚からくすねてきたのか、せんべいまでかじっている。
「えっ?えっ?これって・・・」
かわいそうなのは、橙真である。藍と違い幽霊初体験の橙真にとって、この状況は、妖怪大戦争の渦中へいきなり放り込まれたようなものと言ってよい。
「ど、どう?わたしの言ったこと、信じてくれた?」
自分自身も顔を引きつらせながら、藍は、勝ち誇ったように橙真に尋ねた。
同じく顔を引きつらせた橙真は、頭が床に落ちるのではないかと思うくらい首を縦に振って、「へ、へえ~っ。友達たくさんできて、よかったじゃん」と、わけのわからない受け答えをする。
蒼は、凍り付いたようになっている二人に手招きして、「さあさあ、せまいところだけど、遠慮せずに座って」と、親切に言う。
せまいところって、ここ、わたしの部屋なんだけど。
悪態をつきたい藍のことなどおかまいなしに、蒼は、他の四人の幽霊たちに向かって声をかけた。
「みんな、この子が話していた杉村藍ちゃん。こっちの男の子は、お隣の柏木橙真君よ」
四人の幽霊のうち、いちばんやばそうな若い女がニヤリと笑った。
やばいというのは、そのままの意味で、もう見るからにヤンキー。髪は真っ赤で厚化粧。昔のスケ番そのもので、手にはチェーンまで巻いている。
「おう、よろしくな。おれは、アカ子。気に入らねえ奴がいたら、おれに言いな。こいつで(チェーンで)しばいてやるからよお」
「は、はあ・・・」
怖すぎて、震えながら返事をするしかない藍。怖いと言っても、幽霊のそれとは別の怖さである。
あの世にも、コンビニでたむろっているような、こういう輩はいるのだ。もっとも、あの世にコンビニがあるかどうかは、知らないけれど。
「それで、こっちがムラサキ殿。ちょっと窮屈だけど、気はいいやつよ」
そう紹介された中年男の頭には、なんとチョンマゲが!ほころびのあるグレーの着物姿で、脇には日本刀が置いてある。
「ムラサキでござる。藍殿や橙真殿に危害を加えようとする者あらば、拙者が、一刀両断して見せるでござるよ」
ござる、ござると、まさか、この人、本物のサムライだろうか?
幽霊だから、どの時代からやってきたとしても不思議ではないかもしれないが、藍の目には、どうしても映画村からやってきた役者さんにしか見えない。
と、そこへ影の薄そうな、けれども、いちばん幽霊っぽいこけしみたいな女の子が、無表情で割り込んできた。
「わたしは、ミドリちゃん・・・。ミドリちゃんっていうの。わたしの名前、忘れないでね。忘れたら、呪うからね・・・ヒヒヒ」
薄気味悪く笑いながら、いきなり、しくしくと泣き出すミドリちゃん。最後の「ヒヒヒ」が怖すぎる。
「ミドリちゃんには、気をつけてね。怒らせると、本当に呪われるからね。基本的に二十四時間ホラーな子だから」
相変わらず、蒼が楽しそうに付け加える。
そして、最後のひとりは・・・。
「う、う~ん?」
なんだか、頼りなさそうなおじいさんが、寝ぼけたようにあくびをする。
子泣きじじいかと思った。少なくとも、見た目は、子泣きじじいのまんまである。
「ほら、じいちゃん、自己紹介して!」
蒼に急かされて、子泣きじじいは、ようやく口を開いた。
「わしは、皆から黄門様と呼ばれておる。黄門と言っても、印籠は持ってないがなあ。カッカッカッ!」
ああ、見たことはないけど、聞いたことならある。「水戸黄門」という題名の古い時代劇。
その主人公である水戸の黄門様は、悪人たちを成敗した後、カッカッカッと大笑いするのだ。
それで、黄門様。確かに、笑い方だけは、そっくりかもしれない。
とにかく、最初から最後までひとりひとりの濃すぎるキャラクターに、藍と橙真は、圧倒されっぱなしである。
「これで役者がそろったわね。あなたたちを入れて七人。虹の色の数と一緒ってわけ」
蒼が、満足そうに一同を見渡した。
「虹の色?」
「昨日の朝、二人で議論してたじゃない。虹を見て、五色だとか七色だとか」
藍が首をかしげると、蒼は、「もう、忘れちゃったの?」と言いたげな顔で説明する。
「あれは、サインなの。七色に見えるあなただから、わたしがやってきたってわけ。わたしたちは、チームなのよ。レインボーチーム」
「レ、レインボーチーム・・・。何、そのダサい名前・・・」
「あら?戦隊ヒーローみたいで、かっこいいじゃない?なんたって、閻魔大王様が命名してくださったんだから」
つまり、この五人をそろえたのは、閻魔大王様ということらしい。だとすると、その人選の基準というか、人物の評価の仕方も、かなり偏向していると考えていい。
ともあれ、どちらかというと内向的で友達もそんなに多いとは言えない藍に、橙真の言う通り、昨日の蒼から数えて一気に五人もの友達ができてしまった。
もっとも、正真正銘の幽霊を友達と呼べるかは、人それぞれかもしれないが。
「さてと、それじゃあ、作戦会議を始めるわよ。ほら、そこ!意味もなく首を一回転させない!」
蒼に注意されたミドリちゃんが、一周回って少しずれてしまった頭の位置を両手で直しながら、「ケケケ」と不気味に笑う。
「作戦会議つったって、ここにいる藍ちゃんを守りゃあいいだけのことだろ?それと、何だっけ?」
「ユウ君よ。白井ユウ君」
ふてぶてしい態度で、あぐらをかいているアカ子は、「おお、そうだった」と手のひらにこぶしをたたき込んで、早くも戦闘態勢である。
「つまり、藍殿とユウ殿、この二人をお守りすればよいのでござるな?」
腕組みをしたまま、常に背筋を伸ばしているムラサキ殿が口を開いた。新たに仲間に加わった四人の中では、この人がいちばん頼りになりそうだ。
「それはそうなんだけど、みんな、わかってるでしょ?肝心なのは、藍がユウ君を救わなければならないってこと。それが、閻魔大王様から与えられたミッションなんだから。もう、じいちゃん、寝ちゃあだめ!」
鼻ちょうちんで、こっくりこっくりやっている黄門様を揺り動かして、蒼は、声を張り上げた。
「今さら説明するまでもないけど、わたしたち幽霊には、生きた人間は救えないのよ。生きた人間を救えるのは、生きた人間だけ。わたしたちは、サポート役だからね」
この言葉に反応したのは、藍だった。
「やっぱり、自分で自分の身を守らなくちゃいけないんだ?それができなきゃ、わたし、一か月後に死んじゃうんだ?」
「ううん、絶対にそんなふうにはさせない。たしかにあなたの運命を変えるのはあなた自身だけど、そんなに難しいことじゃないのよ」
「でも、わたしがユウ君を救うって蒼は言うけど、具体的に何をすればいいの?」
「それは、簡単。ユウ君に生きたいって思わせればいいのよ」
「・・・どういうこと?」
あまりにも、あっけない返答に、藍は戸惑った。
ユウ君がどんな形で死んでしまうのか、それはわからないと、蒼は言っていたはずだ。ただ、そこには、ユウ君が生きたいと思っていないというのが前提にあるらしい。
「死にたいと思ってるの?」
「まあね。まだ、幼いから、はっきりとそこまで考えているわけじゃないけど、自分はいらない人間なんだって思ってる。親から捨てられた身だから」
「えっ・・・」
胸の奥がズキンとした。
親から捨てられたって、あんなに小さな子が?あんなにかわいい子が?
「で、死神が、そんなユウ君の心をかぎつけて、ストーカーやってるってわけ。えっと、もう驚かないでしょ?死神がいるって聞いても」
たしかに驚かない。幽霊がいて、閻魔大王様がいるくらいだから、死神がいても驚かない。
「わたしたちと違って、死神は、ひとりでも多くの人間を死の世界に導こうとするやつらなの。そうだ、死神も天使と同じであの世のサラリーマンだから、いっぱいいるってことも理解しといてね」
蒼の快活な口調が、少しトーンダウンしたような気がする。
「でも、ユウ君にまとわりついている死神、なかなか、手ごわいのよ。わたし、今までずいぶんたくさんの死神たちとやりあってきたけど、あんなに執念深いやつは初めて。もう、絶対にユウ君から離れるものかって感じなの」
「ふうん。それで、わたしの出番ってわけ?」
「そういうこと。早い話、死神の力が強いってことは、それだけユウ君の死に対する意識も強いってことで、ユウ君が生きたいと思うようになれば、死神は退散する」
なるほど、話のつじつまは合う。
しかし、ひとつだけわからないことは、同じく一か月後に死ぬ予定なのに、なぜか、藍の前には死神が現れず、かわりに蒼たちがやってきた。
「ねえ、そうすると、本当は蒼も死神なんじゃないの?」
そう藍が質問すると、蒼は、ふふんと鼻で笑って、「そこが、あなたの変わったところなのよ」と満足げに言った。
「わたしたちは、死神でもなければ天使でもない。閻魔大王様の直属部隊なの。つまり、それだけ、あなたが特別ってこと。あなた、亡くなったお父さんにもう一度会いたいって思ってる?」
蒼の口から、突然父さんの話題が飛び出して、藍はドキッとした。
「・・・思ってる」
「ものすごく、思ってる?」
「うん・・・、思ってるよ」
「でも、だからって、自分も死んでしまいたいとまでは、思っていないでしょ?」
予想外の問いかけをされて、藍は、コクコクと無言のままうなずいた。
「そこ、大事なところよ。死神は、死にたいと思ってる人間にだけ取りつくの。そして、死神に取りつかれた人間は、成仏できない。天国へ行けない」
「じゃあ、ユウ君も?」
「そういうことになるわね。だから、何とか食い止めたいのよ。ユウ君は、死んだお母さんに会いたいと思ってる。死ねば、お母さんに会えると思ってしまっているの。現実には、そんな簡単な話じゃないんだけど」
蒼の言葉が、まるで針のように突き刺さった。
ユウ君のお母さんは、もう、この世にいないのか。親に捨てられたと思ってるって言ってたけど、それは、お母さんのことだろうか?
それなら、お父さんは?兄弟は、いないのかしら?まだ幼いから、日中は、おじいちゃんやおばあちゃんが面倒を見てくれているとか?
ところが、蒼は、そんな藍の予想を全て打ち消した。
「ユウ君は、孤児なのよ。お父さんもいない。だから、お母さんが死んでしまってからは、施設で暮らしてた。それが、子供のいないある夫婦に引き取られて、今はその家に住んでるの。まだ六歳なのに、ずいぶん数奇な運命よね」
「はあ・・・」
呆けたように、ため息をつくしかなかった。
世の中は、どうして、こんな不公平にできているのだろう?
同じ六歳の子供でも、両親に大切に育てられ、家族で旅行に出かけたり、おいしいものを食べに連れて行ってもらったり、誕生日を祝ってもらったりする子供がいる一方で、ユウ君のように、その年ごろの子供が当然受け取ることができる幸せをまったく味わえない子供もいる。
藍も、ユウ君に近いのかもしれないが、それでも、本当の母さんがいてくれるし、母さんが仕事で帰ってこない日は、おばあちゃんも顔を出してくれる。
決して、豊かとは言えないが、食べるのに困るというまでのことはないし、ユウ君と比べたら、ずっと恵まれた環境の中に自分がいることを、藍は自覚している。
蒼が、藍よりも、はるかに救わなければならないといった意味がわかった。
「そんな境遇の子、わたしに救えるかな?」
藍が不安そうにこぼすと、蒼は、カラカラともとの笑顔に戻って言った。
「大丈夫、大丈夫。あなただって、親のいないさみしさは十分わかっているはずよ。それに、まったく同じ境遇の人間にしか他人は救えないってなったら、世の中には、今の倍の孤児がいなくちゃならないことになる。その孤児たちを救うのにも、同じ数だけの孤児が必要なわけで、そうなると、世界は孤児だらけになっちゃうじゃない?わたしが言ってること、何か変かなあ?」
自分で言っておきながら、首をかしげている蒼を見て、藍は、思わず吹き出してしまった。
成仏できない幽霊のくせに、蒼は、思いっきりポジティブだ。迷いがない。そんなところが、閻魔大王様に見込まれたのかもしれない。
「蒼は、いつも演説がうまいのお。政治家にでも、なればよかったのになあ。カッカッカッ」
黄門様が必殺の大笑いをしながら、感心したように言う。どうでもいいけど、口から垂れそうになっているよだれを何とかしてほしい。
「よおしっ、話はわかった!さっそく、そのユウ君って子に会いに行こうぜ。ユウ君の近くにいりゃあ、死神のやつがやってくるんだろ?おれが、たたきのめしてやるよ」
気の早いアカ子は、もう立ち上がって殴り込みをかけそうな勢いである。「話はわかった」と言っておきながら、どうも、わかっていないのではないかという気がするが、そもそも、ユウ君の家って、どこにあるのだろう?
「まあ、待ってよ。いきなりユウ君の家に押しかけたところで、なんて言って会わせてもらうの?幽霊のわたしたちは、勝手に家の中に入っていけるけど、肝心の藍と話ができなきゃ、事は進まないのよ」
「なるほど、あくまで、藍殿が説得しなければ、ユウ殿の心は変わらないということでござるな?拙者が、ユウ殿をおびき出して御覧に入れようか?」
「ミドリちゃんが、頭をクルクルさせながら脅かせば、ユウ君、きっと、部屋から逃げ出してくるよ」
はやるムラサキ殿とミドリちゃんを制して、蒼は続ける。
「そんなことしなくても、ユウ君の方から来てくれるわよ。桜公園で待っていればね」
「桜公園って、昨日、ユウ君と会ったあの公園?」
藍の質問に、蒼はうなずいた。
「あそこは、ユウ君にとって思い出の場所なのよ。ユウ君と仲良くなれば、もっといろんなことがわかってくるはず。とにかく、今からでも行ってみようよ。もしかしたら、もう来てるかもしれない」
腰を上げるなり、黄門様を揺り動かした。
「今、話してたばかりで、いきなり寝ないの!ほら、みんな、出発するよ!」
こうして、桜公園へと出かけた藍たちだったが、見える人から見れば、それは、幽霊のチンドン屋と勘違いされたことだろう。
とにかく、ひとりひとりの見た目が、個性的過ぎる。
最初に蒼が現れた時のインパクトもすごかったが、後の四人から比べれば、まだまだ普通だったかもしれない。
一応、リーダーは蒼らしく、このメンバーでは、それがいちばん正しい人選というか、それしかないということなのだろう。なんだかんだ言っても、みんな蒼に従ってついていく。
それにしても、にぎやかな幽霊たちだ。
こうして、桜公園に向かって歩きながらも、例えば、アカ子は、チェーンをチャリチャリ鳴らしてフーセンガムをふくらめているし、ムラサキ殿は、しんがりを務めると言って、無意味にあちらこちらを警戒している。
警戒しているだけならともかく、人を見かけると、今にも切りかかりそうな素振りを見せるので、危なくってしょうがない。
ミドリちゃんは、黄門様とじゃれあって、黄門様の首をろくろのように回そうとするから、回される黄門様はたまらない。
「ひえ~っ、お助け~っ」
悲鳴をあげている黄門様だが、見方によっては、孫と遊ぶおじいちゃんに見えなくもない。もっとも、かなりホラーな光景であることに違いはないが。
そんな中で、ただひとり、橙真だけが浮かない顔をしていた。
普段から口数の少ない橙真だが、藍の家を出てから一言もしゃべっていない。
「どうしたの?」
さすがに気になって、藍が声をかけると、橙真は、考えごとから覚めた人のように、ハッとした様子で答えた。
「えっ?何でもねえよ」
「もしかして、本物の幽霊見て、ビビっちゃった?」
「バ~カ、そんなわけねえだろ?感動してんだよ、本当に幽霊がいるなんてな。こんな不思議なことがあるんだってわかったら、なんか肩の荷が下りた」
「なあに、それ?おじさんの口ぶりみたい」
藍が笑うと、ようやく橙真も笑顔を見せて、「うるせえよ!」と悪態をついた。
でも、橙真の言うことにも一理ある。蒼たちがやってきたことで、藍も、気持ちが楽になったような気がする。
幽霊の蒼たちが、こんなにも自分たちと変わりないのであれば、死んだ父さんも、元気にしているのかもしれない。
それに、日ごろ、テストとか受験とか、その先にある就職のこととか、つらい現実と向き合っている藍たちにとって、日常以外の世界があるのだとわかったことは、大きな心の救いになった。
世界は、自分たちが考えているより、もっと広くて大きいのだと思えた。決まりきったせまい現実の中に、自分たちを押し込める必要など、どこにもない。
「ほらほら、言った通りでしょ?ユウ君、もう来てるわよ」
蒼の言葉に顔を上げると、本当だ、前方の桜公園にユウ君の姿が見える。昨日と同じように、ブランコに腰かけて、何やらマイティロボに話しかけている。
「えっと、橙真も行く?」
「どうかなあ?おれが行ったら、怖がられないかなあ?」
「それは、大丈夫だと思うよ。ほら、一緒に行こ!」
戸惑う橙真の腕を引っ張って、藍は、桜公園へと入っていった。
藍には、自信がある。たぶん、ユウ君は橙真に懐いてくれる。なぜなら、以前、課外授業で保育園へ出かけた時、橙真は、ちびっ子たちに大人気だったから。
あ~あ、いいなあ、橙真は。同世代の女子からだけでなく、小さな子供からも好かれるなんて。
ううん、橙真は、年齢や性別に関係なく、だれとでもすぐに仲良くなっちゃえるんだ。もう、わたしとは大違い。
今だって、ほら、やっぱり!ユウ君、怖がるどころか、目をキラキラさせて橙真の近くに寄ってきた。
「こんにちは、ユウ君」
藍があれこれ考えながら声をかけると、ユウ君は、「あっ、昨日のお姉ちゃん」と言ってから、不思議そうに首をかしげた。
「ぼくの名前、どうして知ってるの?」
そう問いかけられて、しまった!やっちゃった!と、藍は気づいた。
そう、藍は、白井ユウという名前を、蒼から教えてもらったのだった。昨日の夕方の時点では、お互いに名前を名乗り合っていない。
「え?え?え?ええっと、なんだっけ?ハハハハ!」
もう、笑ってごまかすしかない藍を、橙真があきれ顔で見ている。
「ふうん、かっこいいロボだな。兄ちゃんにも見せてくれよ」
橙真が話題を変えると、ユウ君はうれしそうに、「ほら、いいでしょ?」と、マイティロボを差し出した。
たちまち、ユウ君の興味は橙真に戻り、しゃがみ込んでマイティロボを受け取った優しそうな兄ちゃんに、ロボの説明を始める。
「へえ、強そうだな。いつも、これ、持ち歩いてるの?」
「うん、怖いことがあったら、マイティロボが守ってくれるの」
「怖いこと?」
「お母さんが、そう言ってた。怖いことがあったら、マイティロボに助けを求めなさいって」
やっぱり、橙真は、子供の扱い方が上手だ。マイティロボを話のネタに、あっという間に打ち解け合って、もう、膝に乗せたユウ君と一緒にブランコをこいでいる。
蒼たちはと言えば、いつの間にか姿が見えなくなっていて、藍は、ひとりぽつんと取り残された形だ。
う~ん、わたしより橙真の方が、ユウ君の気持ちを変えられる気がするけど・・・。
そう思うそばから、いけない、いけないと藍は首を横に振った。
いちばん肝心なことを忘れるところだった。わたしが、やらなくちゃいけないんだ。そうでないと、わたし、死んじゃうんだから。
すると、橙真は、頃合いを見計らって、膝の上のユウ君に声をかけた。
「ようし、今度は、お姉ちゃんと遊ぼうか?」
「うん!」
昨日とは別人のような、ユウ君の元気な声が響く。
すごい、なんて見事な橋渡し!そうか、初めから橙真は、ユウ君とわたしを近づけるつもりで遊んでくれていたのか。
感心している藍に目を合わせて、橙真が無言で語りかけてくる。
「ほらよ。次はおまえの番だぜ」
ようし、橙真が作り出してくれたこの空気をうまく使いこなして、ユウ君の心に接近しなくっちゃ。
「じゃあ、お姉ちゃんが交代するね」
そう言ってユウ君を膝に乗せてみると、ずっしりとなかなか重い。
そうだよね、もう一年生だもんね。このくらいの体重があって、当然だよね。
「ユウ君、この公園にいつも来てるんだ?どうして、ここなの?もっと、友達が大勢いるところへ行けばいいのに」
ブランコを揺らしながら、そう問いかけてみた。すると、ユウ君は、少しためらってから口を開いた
「うんとね。ここでお母さんを待ってるの」
「えっ?お母さん?」
「うん、お母さん、ここで待っててねって言ってたから。だから、ぼく、言いつけ通り待ってるの」
藍は、蒼が説明してくれたのは、このことかと思った。
ユウ君のお母さんは、もう、この世にいない。だからこそ、子供に恵まれなかった現在の家庭に引き取られ、そこで生活している。
でも、ユウ君は待っているのだ。死んでしまったお母さんが迎えに来て、自分を連れて行ってくれることを、ユウ君は、真剣に願っている。
「・・・でも、ユウ君のお母さんって、もう、この世にいないんだよね?」
かなり勇気が必要だったが、藍は、思い切って尋ねてみた。
「うん、ぼくのお母さん、死んじゃったんだって。お父さんもいないから、ぼく、白井のおじさんとおばさんの家で暮らしているの」
「白井のおじさんとおばさん?」
「ぼくを引き取ってくれた新しい家の人。白井さんって苗字だから。でも、どうして、ぼくのお母さんが死んじゃっていること知ってるの?」
「えっ!えっと、えっと、どうしてかなあ?アハハハハ!」
本当に、わたしったら、バカッバカッバカッ!そうだった、ユウ君のお母さんが死んじゃってること、ユウ君とは、一度も話してないんだった。
助けを求めるように橙真を見ると、橙真は、あきれを通り越して無視を決め込んでいる。おれ、知らねえって感じで。
と、その時だった。
「藍、そこから逃げて!」
びっくりするほど必死な蒼の叫び声が、藍と橙真の耳を貫いた。
「え?何?」
あまりにも急な事態に、ユウ君を抱いたまま、ぽかんとしている藍を、橙真が丸ごと抱き抱えた。そして、地面に倒れ込んだ。
シュッという何かが風を切る音ともに、キィィィィィーンッ!
聞いたこともないような甲高い金属音が長く鳴り響き、ブランコの一方の鎖が切れた。
「え・・・っ」
今、何か鋭利なものが藍の体をかすめていった。何かとてつもなく鋭くとがったもの。目には見えないが、それのもたらす風圧が、藍の髪を揺らしたのだ。
「うそでしょ?なんで、ブランコ切れたの?」
われながら、情けないほど現実感がなかった。
「大丈夫か!怪我はないか?」
橙真が、血相を変えて藍の無事を確かめる。
「・・・うん。ううん、大丈夫。怪我はしてないと思う。ユウ君は、大丈夫?」
藍が尋ねると、ユウ君も首を横に振って、「大丈夫だよ。何でもないよ」と答えた。
でも、藍と違って、あまり、驚いた様子はない。
「今、黒い人が見えた」
そう言った。
「黒い人?」
「うん、最近、ぼくの前によくやってくるの」
「それって・・・」
死神だと思った。蒼が話していた死神がやってきたんだ。
でも、藍には、何も見えなかった。
「藍!」
橙真に続いて顔色を変えた蒼が、不意に背後から現れた。真っ白な着物をまとった雪女ルックスに、ユウ君が目を丸くする。
「びっくりしたわ。まさか、直接、襲ってくるとは思わなかった。こんなの、ルール違反よ!閻魔大王様に報告しなくっちゃ!」
すごい剣幕の蒼だったが、不思議そうな目で自分を見ているユウ君に気づいて、ハッとしたような顔をした。
「そうだった。わたし、ユウ君に見られてること忘れてた」
コクンとうなずくユウ君。
「お姉さんって、お化け?」
「う~ん、お化けって言うと、妖怪のイメージになっちゃうかなあ。こんなにきれいな妖怪なんて、いるはずないでしょう?」
自分で自分をきれいと断言するあたり、やっぱり、この人も、かなりぶっ飛んでいる。
「でも、死神じゃないよね?」
「えっ?」
思いがけないユウ君の言葉に、藍と蒼は、顔を見合わせた。
「ユウ君、死神のこと、知ってるの?」
藍が尋ねると、ユウ君は、もう一度うなずいてから答えた。
「さっきの黒い人、死神だと思うの。マイティロボは、死神大帝と戦うんだよ。だから、きっとそうだと思う」
テレビと現実がごちゃ混ぜになるのは、小さい子供には、よくあることかもしれないが、それだけではない、何か直感のようなものがユウ君にはあると、藍は思った。
「ユウ君、今までも死神に襲われたことあるの?」
「ないよ。だって、マイティロボがついていてくれるもん」
藍の問いかけに、ユウ君は、ユウ君の理屈で素直に答えた。
「死神は、いつも、ぼくのことを見ているだけなの。何もしない」
なるほど、それが死神の本来の姿で、ターゲットとなった人物の死をじっと待ち続けるという釣り人のようなやり方が、彼らに与えられた仕事のはずだ。
なのに、突然襲ってくるとは、何を血迷ったというのだろう。
それとも、ねらっていた獲物を横取りされそうになって、焦ったということだろうか?藍が、死の淵に立っているユウ君を引き戻そうとしたことで、死神の怒りを買ったというなら、説明がつかなくもない。
「こうなると、ユウ君のことも、二十四時間体制で見守る必要があるわね」
蒼が、いまだ怒りが収まらない様子で言った。
「ねえ、そうでしょ、みんな?」
どこで、どうやって見ていたのか、それまで姿を消していたレインボーチームの面々が、蒼の呼びかけを受けて姿を現した。
ムラサキ殿が橙真の、黄門様がユウ君の、そして、ミドリちゃんが藍の後ろから、まるで背後霊のように。
その手品のような登場の仕方と奇抜な容姿に、ユウ君の目が、さらに丸くなった。
「あれ、アカ子さんは?」
藍が、首をかしげる。
「今、ひとりで死神を追いかけているでござる」
「えらい剣幕じゃったよ。ぶっ殺してやるとか叫びおってな」
「死神は、もう死ねないけどね。ケケケ」
そんなことを話しているうちに、アカ子が、死神を捕まえ損ねたチェーンを持て余しながら、普通の人間のように歩いて戻ってきた。
「ちっ!死神のやつ、逃げ足速いでやんの。とっ捕まえて、しばいてやろうと思ったのによ。おっ、おまえがユウ君か?よろしくな!」
そう言って、ユウ君の頭に手を乗せ、ワシャワシャと髪をなでる。
「それにしても、おかしいのう。こんなことは、初めてじゃな。死神が自ら人の命を奪いに来るとは」
黄門様が目をしばたたかせると、ムラサキ殿が後を続けた。
「たしかに奇妙でござる。蒼殿が申される通り、これは、明らかなルール違反でござるよ。死神が期日前に人の命を奪えば、閻魔大王様から大目玉でござる」
一同、腑に落ちないものを感じて黙り込んだが、襲われた当のユウ君は、案外、ケロッとしている。
彼の興味は、藍たちの心配とは他のところにあるようだ。
「やっぱり、みんな、お化けなんでしょ?ぼく、知ってるよ。学校の図書室にあるお化けの本で見たもの」
本物の幽霊に会えて、うれしくて仕方がないといった表情だ。その無邪気な笑顔に、気色ばんでいた空気が、ふっと和らいだ。
「幽霊を怖がらないなんて、ユウ君は勇気があるね。それに、死神まで見えちゃうんだから。わたしには、見えなかった」
藍がユウ君の視線の高さまで膝を曲げて語りかけると、ユウ君は、恥ずかしそうに身をよじって、えへへと笑った。
「とにかく、役割分担しないとならないわね。わたしは、藍のそばにいなくちゃならないから、ムラサキ殿とアカ子、ミドリちゃんでユウ君に張り付くってのは、どう?黄門様は、橙真君の担当ね」
蒼の言葉に、橙真は、首を横に振った。
「おれのところは、いいですよ。それより、藍を守ってもらった方が」
「ダメダメ。死神って、性根が腐ってるから、どんな手を使ってくるかわからないもの。もしかしたら、橙真君を人質にして、こっちをおびき出すってこともやりかねないわよ」
「はあ・・・」
「ね、そうしよう?黄門様だって、見た目はこんなだけど、いざとなったら役に立ってくれるわよ。ねえ?」
蒼が矛先を振ると、見た目がこんな黄門様は、カッカッカッと例の派手な笑いを披露してから、鼻水をすすっている。
話は、決まった。
ユウ君だけは、蒼たちが、何のために自分のまわりに現れ、何をしようとしているのかわからない様子だが、アカ子をはじめ、お化けが三人もわが家に来てくれるとあって、大喜びだ。
この子、本当にすごい。日常からは考えられない奇妙なお化けたちの登場を、こんなにも、素直に受け入れられるなんて。枕で蒼を撃退しようとした自分とは、大違いだ。
藍は、そんなことを考えながら、ふと、大事なことを思い出した。
「そうだ。わたしの名前、ユウ君に教えてなかったよね?わたし、杉村藍っていうの。こっちのお兄ちゃんは、柏木橙真。これから、ユウ君と一緒に過ごすことが多くなると思うけど、よろしくね」
ここいちばんの笑顔で言ってみたが、それが、やぶ蛇だった。ユウ君は、藍の言葉につられるようにして小さな頭をペコンと下げたが、思い出したように、こう言ったのだ。
「さっきも聞いたけど、お姉ちゃん、どうして、ぼくの名前知ってるの?ぼく、名前教えたっけ?」
「え?え?どうしてかなあ?どうしてだっけ?アハハハハハ!」
隣にいる橙真は、無視を通り越して、派手なため息をついている。
ちょっと、そんな顔しないで助けてよお。
もう、トホホな顔で笑うしかない藍を見て、蒼が心底おかしそうにケラケラと笑った。