美雪が大河内町を去ってから、一ヶ月以上たった二月三日の節分の日、放置されていたおばけ工場に、新たな動きがあった。
和田コーポレーションとは、まったくの別会社「大村グループ」が用地を買収、大型ショッピングセンター「G&G」の大河内町進出を名乗り出たのである。
センチュリーWADAの出店をめぐって、あれだけもめにもめた大河内町のことだから、今回も大変な騒ぎになるにちがいないと、ニュースを聞いただれもが思ったが、現実は、まったくちがった。
一度、センチュリーWADA出店反対連盟を解散させた、けやき通り商店街と駅前通り商店街には、もう一度、新たに連盟を結成する力も意思も残っていなかった。
戦意喪失の両商店街は、大村グループの出店説明会にのぞんでも、相手方の提案をほぼ百パーセント受け入れた。
ただ、和田コーポレーションの失敗を目にした大村グループは、「G&G」と両商店街の共存共栄を前面に押し出してきた。クーポン券やセールの共有などによって、大河内町全体の活性化を図ろうとしたのである。
出店予定地であるおばけ工場の取り壊しがはじまると、それから一年以上の歳月を経て「G&G」は完成した。
その間、両商店街からは、いくつもの閉鎖店舗が出た。結局、大規模小売店の進出に関係なく、過疎の進む港町のシャッター街化は、加速するしかなかったのである。
けれども、そんな中で、ナイトウ洋菓子店をはじめ、健二のクラスメイトたちの家が経営する店舗は、善戦していた。和助や繁治、源三郎の店も、なんとか持ちこたえていた。
中でも、佐和子の作ったシュークリームが大ヒットしたナイトウ洋菓子店は、以前にも増して客足が伸びた。
「港町あんクリーム」と名づけられた、その新商品には、粒あんをからめた生クリームが入っていたが、これは、秀一の発案である。
そう、秀一は、美雪のおしるこから、粒あんを使うことを思いついたのだった。
粒あんと生クリームという、和洋正反対の素材の組みあわせに、ブランデーやメープルの風味をからませたシュークリームは、大人から子供まで、多くの人々の支持を勝ち取った。
とにかく、秀一は、佐和子に約束したとおり、「足りなかった何か」をちゃんと見つけ出してきた。
センチュリーWADAとの最後の戦い以降、作蔵からの信頼も得て、秀一は、今や家族のような存在である。時には、キャッチボールの相手もしてくれる頼れる兄貴だと、健二も見ていた。
その健二も、中学生になっていた。
野球部に入った健二は、たちまち頭角を現し、念願だった、一馬とのバッテリーも実現した。
背番号は、十一。三年生の先輩たちが引退したあとは、当然、エースをねらっている。
若菜は、弓道部で見事な成績をおさめていた。
スポーツ万能の若菜のことだから、もっと激しい運動をやるべきだと、健二は何度も意見したが、意外にも、小学生のころから弓道をやってみたかったのだと本人は言う。
もっとも、剣道部や空手部など、格闘技系の部活に入られていたら、ますます、手に負えなくなるところだったと、健二は、ひそかに胸をなでおろしていた。
満久は美術部、恒子は料理部、そして、弘樹は、二年生になったとたん、なんと生徒会長になった。
生徒会長に立候補した時の弘樹は、名前の書かれたたすきを肩からかけた姿が、あまりにも似あっていて、まるで、本物の政治家のようだと健二は思ったものだ。
それぞれが、それぞれの道を歩みはじめていた。
けやき通り商店街の幼なじみたちは、以前にくらべて、行動をいっしょにする機会が少なくなった。
けれども、それは、おたがいの心が離れたこととは別である。むしろ、健二たちの絆は、和田コーポレーションとの戦いを通して、以前よりも、深く強くなっていた。
健二たちの心の中には、共通したひとつの思いがあった。美雪のことだった。
今ごろ、美雪はどうしているだろう?
あれ以来、美雪からの便りは一度もない。東京に住んでいるのか、ほかの町へ移転したのかもわからない。
ふつうなら、忘れられてしまっても、不思議ではなかった。
にもかかわらず、健二の心にも、若菜の心にも、美雪は、強く焼きついていた。
忘れられるはずがない。和田コーポレーションとの最後の決戦となったあの日、美雪のおかげで、胸を病んだ作蔵が救われたことに、健二は、今も感謝している。
しかし、美雪と親しくしていた若菜にも、彼女の行方は、わからないらしかった。
美雪が去ってから、大河内町に二度目の夏がやってこようとしていた。
ある日、部活からの帰り道、健二が自転車にまたがって走っていると、正面から来たライトバンにクラクションを鳴らされた。運転席の窓が開いて、なつかしい声が聞こえてきた。
「よお、内藤。元気にしてるか?」
声の主は、岡村先生だった。
「先生!お久しぶりです!」
「大きくなったなあ。野球部でがんばってるそうじゃないか」
昔の担任から大きくなったと言われて、健二は、あらためて自分の体を見まわした。
あまり、気にしてはいなかったが、たしかに健二は、小学生のころより、ひとまわりもふたまわりもたくましくなっていた。
岡村先生は、相変わらず、やさしい先生のままだった。まだ、教育委員会に引っぱられるということには、なっていないらしい。もっとも、現場で教鞭をとって、子どもたちとああでもないこうでもないと奮闘している方が、岡村先生らしいのかもしれなかった。
健二は、そんな、昔のままの岡村先生の笑顔を見ているうちに、ハッと思い出した。
「そうだ。先生、ひとつ聞きたいことがあるんですが」
「聞きたいこと?」
「美雪のことです。美雪が、今、どこに住んでいるのか知りませんか?みんな、会いたがってるんです」
健二は、これが最後のチャンスかもしれないと思った。岡村先生が知らなければ、もう、美雪の居場所をつきとめる方法はない。
「なんだ、そんなことか。知ってるよ。東京に戻ったまま、今も住所は変わらないよ」
「先生、今でも、美雪と連絡つくんですか?」
「ああ、毎年、年賀状と暑中見舞いが届くしね」
「お願いします!美雪の連絡先、教えてください!」
「え?あ、ああ。わかったよ。家に帰ってから電話するよ。年賀状を見ないと、わからないからね」
岡村先生は、健二の勢いに驚きながらも、そう約束してくれた。
「しかし、おまえが、そんなに上条に会いたがっていたとは、知らなかったなあ」
「ちがいます、先生。おれじゃなくて、おれたちです」
「ハハハ、まあ、そういうことにしておこう。上条も、きっと喜ぶぞ」
はたして、その日の夜、岡村先生からの電話はあった。
「東京へ戻ったばかりのころに、教えてもらったものだけど、住所も電話番号も変わっていないはずだよ」
そう、先生は教えてくれた。
健二は、礼を言って受話器を置くと、さっそく青嶋酒店に出かけた。
いつもの気安さで店から入り、「若菜いる?」と両親にたずねながら、二階にある若菜の部屋に急きこんで入ると、ひどく怒られた。
「健二、あんた、女の子の部屋に入る時は、ノックくらいしなさいよ!」
「え~っ?今さらなんだよ?それに、ここ、女の子の部屋じゃねえし」
「こいつ、まだ言うか!」
若菜に首をしめられて、目を白黒させながら、健二はさけんだ。
「やめろっ、やめろっ!大切な話があるんだよ。美雪の家の住所が、わかったんだよ」
「えっ・・・ホント?」
「ホント、ホント!岡村先生に教えてもらった。ぐえっ、苦しい!」
まったく、とんでもない握力だ。本当に、若菜が格闘技系の部活に入らなくてよかったと、健二は、あらためて思った。
「東京にいるの?」
「そう」
「健二、あんた、どうして・・・」
「おまえも会いたいだろ?美雪にさあ。あれからどうしてるか、気になってんだろ?」
「・・・・・」
若菜は、押しだまった。そして、真剣なまなざしでうなずいた。
「うん、気になってる・・・」
「もう一度、呼ぼうぜ。この町に。夏休みなら、なんとかなるだろ」
若菜のひとみが、かすかにゆらめいた。
健二と同じく、この二年あまりで、若菜もずいぶん背が伸びた。と同時に、時々、健二がドキッとするほど、女の子らしいしぐさや表情を見せるようになった。
そんな時、健二は、あわてて目をそらし、冗談でごまかしてしまう。
けれども、今は、そういうわけにはいかなかった。健二は、ポケットから一枚のメモを取り出した。
「ここに、美雪の家の住所と電話番号が書いてある。おまえから、電話してみてくれよ」
「わたしから・・・?」
「えっと、おれからってわけにはいかないだろ。その、なんて言うか・・・、若菜がいるのにさあ。そうだよ。おまえから電話をかけるのが、いいんだよ」
健二は、意味のわからない言葉を、もごもごと口走りながら、頭をかいた。
若菜は、キョトンとした顔をしていたが、やがて納得したようにうなずいた。
「うん。そうする。わたしから連絡してみる」
健二は、少しずるい気がした。
本当は、自分から電話をかけてみるべきかもしれなかったが、さすがに、そこまではやりにくいと思った。
それに、健二からの誘いに、美雪が乗ってくるだろうかという不安もあった。
きっと、美雪は、来られないと言うにちがいない。
次の日、登校してきた若菜は、ニコニコしながら、まっ先に健二の席にやってきた。
今はクラスがちがっているが、となりどうしの教室なので、若菜は、毎日、健二のところへやってくる。
「連絡ついたわよ」
「本当か?元気だったか?」
美雪の反応を気にしていた健二は、思わず身を乗り出した。
「たぶんね。電話じゃ、声しか伝わらないから。でも、ぜひこっちに来たいって。夏休みなら、何とかするって言ってたよ」
「そうか!じゃあ、日付をあわせないとな。一馬や弘樹たちにも、声かけしようぜ」
「うん!」
若菜は、元気にうなずいたが、そのあとで、少し探るような目をして言った。
「よかったね、健二。上条さんに会えて」
「へ?」
健二は、目をまるくした。それから、すぐに苦笑いをして答えた。
「ば~か。本当に喜ぶのは、弘樹だよ」
「弘樹?」
若菜は、浮かない顔をしている。
健二は、この際、美雪のことがいちばん好きなのは、弘樹なのだということを、ばらしてしまおうかとも思ったが、あと少しのところで言葉を飲みこんだ。
これも、武士の情けだ。弘樹、ありがたく思えよ。
「何よ?何、笑ってんのよ?」
「別にィ。教えてあげな~い」
健二は、若菜の言い方をまねして、口をとがらせた。
「もう、ふざけないでよ。教えてよ。教えなさいったら!」
「いてててっ!こら、たたくなよ!」
じゃれあう二人の様子を見ていた一馬が、窓際からニヤニヤとはやしたてる。一馬は、今も健二と同じクラスだ。
「相変わらず、仲がいいなあ。見せつけるなよ」
「どこが!」
健二と若菜は、同時にわめいた。
健二のまわりでは、いつも騒ぎが絶えない。けれども、若菜にポカポカとたたかれながら、健二は思うのだった。
おれは、世界中のだれにも負けないくらい、幸せなんじゃないか・・・と。
大好きな友達と大好きな家族。ふだんは気づかないが、本当に大切なものは、いつも自分の身近なところ、手が届くような場所にあるのかもしれない。
美雪は、どんなふうになっているだろう。以前よりも、もっともっと大人っぽくなって、また、おれのことを鼻で笑うだろうか?
「あなた、野球以外は、なんの取り得もないのね」
そう言って、上からものを言う美雪の姿が、健二の目に浮かぶ。
そんな、生意気なままの美雪に会いたかった。
× × ×
その日、健二は、けやき通り商店街のメンバーと、ナイトウ洋菓子店で待ちあわせをした。
夏休みに入ったばかりの、日曜日の朝。
ナイトウ洋菓子店の店先には、健二と若菜、それに、たくましく日焼けした一馬がいる。
恒子と満久も、ずいぶん体が大きくなった。背丈が伸びて、すっかり生徒会長らしくなった弘樹は、いつになく目を輝かせていた。
久しぶりに勢ぞろいした六人は、今日のために、いそがしい日程を調整してきた。
これから、みんなで、電車に乗ってやってくる聡史と美雪の親子を、大河内町駅まで迎えにいくのだ。
大河内町は、「G&G」の開店によって、以前よりもにぎやかな町になった。
それに比例して、けやき通り商店街の様子も明るく変わった。のぼりを立てたり、ネオンをともしたり、様々な工夫がなされた。
そうでなければ、巨大ショッピングセンターに打ち勝つことはできない。
表面上は、協調路線を歩んでいるが、新参者なんかに負けてたまるか、といった本来の気骨も、徐々に地域に戻りつつあった。
「よしっ、みんなで二人を迎えにいってこい。今日は、わしらが、腕によりをかけてごちそうを作ってやるぞ」
まっ黒に日焼けした作蔵が、店先に出てきて、景気よく言った。そのとなりには、近ごろ、盛んにナイトウ洋菓子店にやってくるようになった、和助の姿もある。
二人とも、聡史と美雪がやってくると聞いて、自分たちなりのもてなしをしたいらしい。
「わしら、学生時代は、合宿でなんでも作ったからなあ。暑さをぶっ飛ばすような、スタミナのあるもんを食わせてやろう」
和助の言葉に、食いしんぼうの満久が、まっ先に歓声を上げた
「わあっ、楽しみだなあ!さっき、朝ごはん、食べたばっかなのに、ぼく、もう、おなかペコペコなんだよね」
何年たっても、ますます食欲旺盛な満久の様子に、みんなの笑い声がおこった。
健二たちは、ツバメのように忙しなくおしゃべりしながら、駅への道を歩きはじめた。
昨夜までの雨が上がった、気持ちのいい朝だった。磯の香りのする潮風にあおられて、けやき通り商店街のあちらこちらから、風鈴の音色が伝わってくる。
店先に掲げられた氷ののぼりや、駄菓子屋の花火。幼いころから目にしてきた風景が、ここには、今もそのまま残っている。
健二は、ふと、作蔵の言葉を思い出した。
「わしらは、いつの時代だって、負けない気持ちでやってきた・・・。なあ、健二、そうだろ?・・・負けたらみじめだぞ。戦争で負けて、今度は、経済で負ける。強いやつらばかりがのさばるようになったら、わしらは、もう死ぬしかないんだ・・・」
作蔵が、その言葉を口にしたのは、おばけ工場での最後の戦いの時だった。あの時は、機動隊から逃げるのに必死で、どう答えていいのかわからなかった。
けれども、今になって健二は思う。
死ぬしかないだって?いいや、死んでたまるか!と・・・。
(じいちゃん、それでいいんだろ?おれたちは、生きなきゃならない。どんなに、つらい時でも、立ち止まるわけにはいかないんだ)
しかし、同時に、生きなければならないのは、自分たちだけではないことを、健二は知っていた。
美雪や聡史も、生きなければならない。それ以外の、和田コーポレーションで働く人たちにだって、それぞれの生活があるはずだ。G&Gの従業員も、同じだろう。
立場のちがう人々が、自分や家族の生き残りをかけて、ぶつかりあう。それが、世の中というものなのかもしれない。
まるで、生クリームと粒あんがまざりあった「港町あんクリーム」みたいだ。
「おもしれえなあ・・・」
健二は、ポツリとつぶやいた。おもしろいなどと言っては、いけないのかもしれないが、ほかに言葉が見つからなかった。
「うん?何が?」
となりを歩いていた若菜が、不思議そうに健二の顔をのぞきこむ。
健二は、いたずらっぽく笑うと、突然、若菜の手を取って走り出した。
「ちょ、ちょっと、健二。いきなり、どうしたの?」
幼いころ、こんなふうに、若菜と手をつないで毎日走っていた。二人で走っているだけで、楽しかった。そして、その気持ちは、今も変わらず健二の中にある。
若菜が、うっすらと、ほほを赤く染めていた。健二は、ちらりとふり返って、首を横にふった。
「いや、なんでもない。なんでもないよ・・・」
空が、どこまでも青かった。
立場なんか、どうでもいい。もうじき、なつかしいあいつに会える。
そう思うと、健二の足取りは、風のようにかるくはずんだ。
商店街を抜けると、セミたちの合唱が大きくなった。アスファルトの道から、ゆらゆらとかげろうが立ち上っている。
「あ、虹が見える・・・」
若菜が、遠く積乱雲の浮かぶ空を指さした。
夏である。
健二の大好きな季節が、やってきた。