序章

いつのころからだろうか?

月に一度くらいのペースで見る夢がある。

夢は、かつて家族で出かけたハイキングのシーンから始まり、なぜか服を着たまま川に飛び込むところで終わる。

息が続かず溺れる状態で目が覚めるものだから、現実に戻ってからも、心臓はバクバク、気分は最悪だ。

「またか・・・」

藍(あい)は、ゆるゆると上半身を起こして、思わず両手で顔を覆った。

眠い二つの目をまぶたの上から指でこすると、(そうだ、今日は学校だった。今、何時だろう?)と少しずつ頭がさえてくる。

目覚まし時計の針は、午前六時二十五分を指していた。

ベルの鳴る五分前。この夢を見る時は、いつもそうだ。夢が、目覚まし時計の代わりをしてくれる。

早く支度をしなければと重い体をベッドから降ろし、トイレに行って洗面台で歯磨きをシャカシャカしているあたりから、ようやく頭がさえてきて、キッチンで朝ご飯の支度をしている母さんと顔を合わせて、「おはよう」をする。

「目の下にクマができてる」

いきなり、母さんが言った。

「えっ、うそ。鏡で見た時は、気づかなかった」

さすが看護師、人の体調をよく見抜く。

「昨夜、自分の部屋で『ハイパーレスキュー』見てたでしょ?」

「うふふ、バレてた?」

「そりゃそうよ、母さんだって、見ちゃったもの」

母さんは、そう笑いながら、フライパンの目玉焼きを皿に移した。

二人が話題にしている『ハイパーレスキュー』とは、若い消防隊員の活躍を描いた深夜ドラマで、藍も母さんも、週一回のこの番組を楽しみにしている。

楽しみにしているというか、あまり見たくないのだけれど、見なくてはいけないような気になってしまっている。

録画をしているのだから、後で見ればいいだけのはずなのに、どうして、我慢できないんだろう?そもそも、なんで深夜にドラマやるわけ?

テーブルに三人分の食器を並べて、「いただきます」をする。ちゃんと手を合わせるところ、わが家は、妙にしっかりしている。

藍は、目玉焼きをほおばりながら、ちらりと斜め向こうの何も乗っていない皿を見る。お茶碗もコップも、洗わずに片づけられる状態だ。

「今度の授業参観、おばあちゃんに頼むけど、いい?」

「いいよ、来なくても。おばあちゃん、足悪いんだから」

「そういうわけにはいかないわよ。先生に、藍のこと、ほったらかしにしてるって思われたらいやじゃない」

「別に、ほったらかしにされてないしぃ」

普通って言えば、これが、普通なんだろう。

両親がちょっと無理をして建てたマイホームで、ご飯とみそ汁、キャベツを付け合わせたハムと卵の朝食を取り、あわただしく学校や勤務先へ出かける。

親は、家のローンに追われ、毎月の光熱費と水道代の支払いに頭を悩まし、これからの娘の養育費を心配している。

今年、中学二年生になった娘の方は、友達とスイーツや恋バナで盛り上がりながら、現実には、待ち構える高校受験のことで暗い気分になっている。

けれども、そんな、ごくごく普通なはずの藍の家庭は、やっぱり普通ではなかった。

藍には、父親がいない。

三年前、消防士だった父さんは、火災現場に取り残された子供を助けようとして、殉職してしまった。

母さんは、市内の総合病院に勤める看護師だが、世間で思われているほど給料がいいというわけではなかった。亡くなった父さんの保険金や死亡退職金がなければ、かなり苦しい生活を強いられていたはずだ。

食事の時にテーブルに並べられる三人分の食器には、今も父さんのことを忘れられない母さんの思いが込められている。

もちろん、藍の思いも。

二人の間で『ハイパーレスキュー』の話題が持ち上がるのは、こうした背景があるからだ。『ハイパーレスキュー』を見ていると、父さんがどんな現場で働いていたのか思いをはせることができる。

所詮、作り物のドラマなので、現実とは大きくかけ離れてしまっているのはわかっているけれど。

「今日、お昼前から雨が降り出すって。傘、忘れないでね」

杉村という表札が掲げられた玄関口で、自分も傘を手に取りながら、母さんが言った。

「もう、荷物になるぅ」

ぷうっとほっぺたをふくらめて見せたものの、藍も、靴箱に引っかけてある白いなじみの傘に手を伸ばす。

こうして、毎朝繰り返されているように、親は、軽自動車で勤務先の病院に向かい、娘は、徒歩で地元の中学校を目指すこととなる。

が、その前に。

「おはようございます。橙真(とうま)、支度できてる?」

藍は、隣の柏木家の玄関先に立っている。

この家のひとり息子、橙真は、藍の幼なじみで同級生、クラスまで同じだ。

「藍ちゃんは、いつも時間通りだねえ。うちの子にも見習わせたいよ」

橙真の母さんは、藍をほめる一方で、息子のいる二階へと続く階段に向かって大声を張り上げる。

「ほら、藍ちゃんが来てくれてんだから、早くしな!」

すぐに、ドタドタと派手な音を鳴らして、橙真が階段を駆け下りてきた。

この年頃の男の子がたいていそうであるように、親の前では、いつもふくれっ面をしている。

「おはよう」

「おう」

小学校へ上がった時から、いったい何回、この「おはよう」「おう」のやり取りをしてきたことだろう?

「そうだ、傘持った方がいいよ。傘」

「おう?」

「雨降るんだって」

「おう」

まったく、この男は、朝から「おう」しか言わないんだから。

少々あきれ顔で橙真の母さんと目を合わせ、思わずクスッと笑いながら、いつもの通学路を歩き始める。

橙真の家は、農家だ。

藍たちが住んでいるこの町は、駅前の中心地こそ、多少のオフィス街や商業地となっているものの、少し車を走らせただけで、たちまちのどかな田園風景となり、隣町までそのままの景色が続いている。

周辺に民家が少ないことから、小学校の時は、事故や犯罪抑止のために、毎日、集団登下校。中学生になった今でも、藍は、必ず橙真と学校へ行き、帰りも基本的に橙真と一緒だ。

そんなのどかな環境だから、中学生の男女が二人仲良く登校しても、冷やかされるなんてことはない。

「あ~っ、たり~な。今日は朝からガリの国語かよ」

「いいじゃない。わたし、鈴木先生の授業好きだよ」

「眠くなるんだよ。朝からガリの声、聞いてると」

ガリというのは、国語担当の年配男性教師で、ガリガリに痩せていることから、このあだ名が付けられたらしい。

「どの授業だって、眠いくせに」

藍の言葉に、橙真は沈黙した。

歩いていなければ、この男は、立ったまま眠ってしまいそうだ。

「あれ?もう、降ってきた?」

不意に小さな水の粒が頬にあたったのを感じて、藍は、顔を上に向けた。

空は晴れている。でも、半分くらいは、白い雲で覆われている。

やがて、雨脚が強くなってきて、藍と橙真は傘を開いた。

「ほ~ら、傘、持ってきてよかったでしょ?」

「おう、まあな」

雲の合間から差す日の光が細かな霧雨に反射して、きらきらと美しく輝いて見える。それが、五月のそよ風と相まって、こんなさわやかな朝の空気は久しぶりだと藍は思う。

その時だった。

「ん?」

藍は、行く手の風景の中に現れた、ちょっとした変化に気づいた。

「どした?」

「う~ん。あっ、ほら、虹が見えてきた!」

藍が指差した向こう、広々と続く田んぼとなだらかな山の境目あたりから、ぼんやりと大気の色が変化し始めている。

虹は、みるみる左右の端を伸ばして、藍と橙真の前に、まるで凱旋門のように立ちはだかった。

大きい!しかも、色合いがくっきりしている。

「うわあっ、すごい虹!七色がはっきり見える」

藍は、思わず大きな声をあげた。こんな立派な虹が見られるなんて、なんだか、とてもいいことが起こりそうな気がする。

けれども、そんな藍のはずむ心を、橙真は、気のない様子で打ち消した。

「七色あるか?五色じゃね?」

何を言うか、こいつ!と、藍は思った。

どう見たって七色じゃん!

もっとも、虹の色というのは、世界各地で色の数え方に差があるそうで、七色とする国もあれば、六色とする地域もある。中には、三色とする人たちもいるらしい。

だから、虹を見て七色だとか五色だとか言い張るのは、不毛な会話なのかもしれないけれど、今の藍には、どうしても七色に見えて仕方がなかった。

赤、橙、黄、緑、青、紫、そして、七番目の藍色が見えるのである。

「ねえ、よく見てよ。ちゃんと藍色が見えるじゃない」

「藍色?ああ、おまえ、自分の名前にこだわってんのか?そうだな、藍色って、影薄いもんな。おまえと同じ」

「あんた、一言多いよ!」

藍は、手を上げてたたく真似をしてみせる。

こんな他愛もないやり取りを、二人は、もう何年も続けてきた。同級生というよりは、姉弟みたいな感じである。

ちなみに、姉弟と書いたのは、藍の誕生日が橙真のそれより三か月早いためだ。何かと突っ込みを入れてくる橙真を、自分があしらってやっているのだということで、藍は、自分の気持ちを落ち着けている。

「まあ、お子ちゃまの橙真には、わかんないのよ。藍色なんて、大人の色だもんね」

何がどう大人の色なのかわからないが、藍は、そう鼻で笑って見せた。

すると、「ああ、確かにそうかもね」と、どういうわけか、頭の後ろの方で返事がする。

あれ?今の橙真が言った?

隣を見ると、お子ちゃまと言われてますますふくれっ面の橙真が、カバンをブラブラさせながら歩いている。

口は、真一文字に閉じられているけれど・・・?

「何よ。気のない返事して」

「はあ?」

橙真は、キョトンとしてこちらを見た。その反応を見て、藍もキョトンとする。

さっきのって、橙真が言ったんだよね?

もう一度、自分に問いかけてみたが、思い返してみると、声が違っていたような気がする。思春期を迎えた男の子の声というよりは、もっと大人の女の人の声。

寝ぼけてるのは、わたしの方かしら?

やっぱり、『ハイパーレスキュー』を生で見るのは、脳に悪影響を及ぼすらしい。これからは、録画したものを後から見るようにしようかな。

なんだか腑に落ちないうちに、学校に着いてしまった。

「よう!」

校門のところでクラスメイトの男子生徒から声をかけられると、「おう!」相変わらずの口調で、橙真は、ようやく笑顔を見せた。

「おまえ、昨夜の『ハイパーレスキュー』見たか?おれ、感動しちゃったよ!」

橙真のその言葉に、思わず藍は立ち止まる。

あんた、『ハイパーレスキュー』なんか見てるから、朝から眠いんだよ。

友達と盛り上がっている橙真の背中を見送りながら、藍は、鼻を鳴らした。