第三章

それにしても・・・である。

まだ、たったの二日しか経っていない。たった二日間なのに、この、どっと体にこたえる疲労感は何だろう?

あまりにも、たくさんのことが起こりすぎたのだ。生まれて初めて幽霊と遭遇し、一か月後の死を告げられ、死神に命をねらわれた。こんな現実離れしたことが次々と身に降りかかれば、だれだってグロッキーになって当然である。

「藍、何かあった?」

その日の夕食時に母さんから質問されて、藍は、ようやく、仕事から帰ってきた母さんとほとんど会話をしていないことに気がついた。

顔を上げると、お茶碗をテーブルに置いてこっちを見ている、母さんの真剣な目が飛び込んできた。

やばい!母さんに様子の変化を気づかれてしまった。

「ううん、別に何にもないよ」

「ずいぶん疲れているようだけど。昨日から・・・」

そう言われて、藍は、驚きの色を隠せなかった。すでに昨日の段階で、母さんは、娘の身に何か起こったことを察していたのだ。

そうだ、母さんには、何だってわかってしまうのだ。『ハイパーレスキュー』を見て寝不足になっていることも、一目で見破られてしまったではないか。

「学校で嫌なことでもあった?」

「ううん、いつも通りだよ。特に変わったことはなかったよ」

「本当に?・・・それなら、いいけど」

たぶん、母さんは、娘がいじめにあっているんじゃないかとか、そんなふうなことを心配しているのだろう。

母さんの憶測は、全くの見当違いだが、事態は、それ以上に深刻だ。藍は、生命の危険に脅かされているのだから。

「藍には、家事の手伝いばかりさせちゃってるから、母さん、心配してるの。友達と過ごす時間がないでしょ?塾へも行かなきゃならないし」

「そんなの大したことじゃないよ。わたし、料理とか好きだし」

それは、本当だった。

もともと、料理に興味があったわけではないが、父さんが亡くなって、母さんが看護師の仕事量を増やすようになってから、藍は、夕食の支度を自分ですることが多くなった。

そして、その結果、料理ってなかなかおもしろいと思うようになっていた。だから、少なくとも炊事に関してだけは、苦痛に感じたことはあまりない。

まあ、掃除は、少し苦手かもしれないけれど。

「本当に何でもないから、安心して。ちょっと、疲れがたまっているだけ。お風呂に入って早めに寝れば、大丈夫だって」

「そう?フフフ、なんだか成人した娘と話してるみたいね」

母さんは、控えめな笑顔を見せて言ったが、どこか悲しげにも見えた。

やばい、やばい。

母さんには、何も悟られないようにしようとがんばってきたのに、フッと緊張の糸が途切れてしまった。

死神のことなんか考えないで、一か月後に迫っている死のことも頭から追い出して、もっと元気な顔を見せないと。

気を取り直して、ご飯をかき込んでみせる。

正直、こんな状態で食欲がわくはずもなかったが、食べることだけは、おろそかにしてはならないと思った。

父さんの教えである。

父さんは、いつも優しい人だったが、食べることに対してだけは厳しかった。というか、どんなにつらい時でも、食べなくてはだめだと教えてくれた。

食べていれば、元気が出る。元気があれば、どんなことでも乗り越えていける。

食べることもままならない子供たちが世界中に大勢いる中で、藍は、父さんの言ったことは正しいと思った。

だから、今だって、ちょっとむせそうになりながら、がんばってご飯を食べることにした。

その後、母さんとは、テレビやファッションのことなど、他愛もない話しかしなかったが、はっきり言って、内容をほとんど覚えていない。

藍の頭からは、不安げな母さんの顔が離れなかった。お風呂で湯船につかっても、布団に潜り込んでからも、離れない。

疲れているからすぐに眠られると思ったのに、どういうわけか目がさえてしまって、藍は、長いこと部屋の天井を見上げていた。

「な~に考えてんだよ?」

いつまでも眠りにつけない藍を見かねたのか、蒼が話しかけてきた。

昨夜もそうだったが、蒼は、必要以上に藍のプライベートに踏み込んでこない。

家の中のどこかにいるわけだから、いつでも藍の部屋をのぞき込むことができるはずだが、そういうことはしてこない。

能天気なように見えて、案外、細かい気配りを忘れない性質なのかもしれない。

その蒼が真夜中に話しかけてきたわけだから、やっぱり、だれの目から見ても、藍は悩んでいるのだろう。

「まあ、悩むなっつう方が無理だろうけどね」

蒼は言った。

藍は、仰向けのまま小さくうなずいて、乾いた口を開いた。

「ユウ君が桜公園に行きたがるのは、お母さんを待っているからなんだね。いつか、死んだお母さんが迎えに来てくれると思ってる。でも、それは・・・」

「そう、一緒にあの世へ旅立つことになる。だから、迎えに来ちゃいけないんだよ」

蒼の声は、いつになく沈んでいた。

幽霊である以上、もしかしたら、蒼は、ユウ君のお母さんのことを知っているのだろうか?

考えてみれば、藍は、蒼のことを何も知らない。

「蒼は、どうして死んじゃったの?それに、なんでレインボーチームに選ばれたの?それって、成仏できなかったってことでしょ?」

「もう、ずいぶんはっきり言ってくれるわね。わたしだって、好きで幽霊やってんじゃないわよ。やらなきゃならなかっただけ」

「やらなきゃならなかった?なんで?」

「それを話せば長くなるわね。それに、昔のことなんて忘れたわ。忘れるようにしてるの。暗い気持ちになるから」

「・・・・・」

もしかしたら、藍は、蒼の触れられたくない部分に、ちょっぴりだけ触れてしまったのかもしれない。

そうだ、人が死ぬって、簡単なことではない。蒼が今のようなポジションにいるのも、何か深いわけがあってのことなのだ。

「わたしも、父さんに迎えに来てほしいって思ってるのかな?」

藍は、とうとう口に出して言ってみた。

「だから、こんなことになっちゃったのかな?」

答えを待っていたが、何も返ってこないので顔だけ上げてみると、蒼は、勉強机の椅子に座って何やら手の中を見つめている。

「なあに、それ?」

蒼は、そのままの姿勢で言った。

「首飾り。きれいでしょ?」

掲げて見せてくれたのは、薄緑色の小石。

「それって、もしかしてヒスイ?蒼もそういうものに興味があるんだ?知らなかった」

「いつもは、着物の下にしまってあるからね。変なこと言うから、思い出しちゃったじゃない」

「思い出した?」

「これね、わたしの大切な人からもらったものなの。わたしの宝物」

大切な人という言葉に興味がわいた。

大切な人と言ったら、やっぱりあれよね?

「彼氏?あっ、もしかしたら、旦那さん?蒼って、結婚してたの?」

「もう、何言ってんだか。わたしは、閻魔大王様一筋なのよ。結婚なんかしてるわけないじゃない」

「でも、それは、死んじゃった後のことでしょ?まだ、生きてたころはどうなの?」

「ううん、人間やってたころだって同じよ。あ~あ、わたしって、恋のひとつもしないまま死んじゃったのよね。さみしい人生だったなあ」

あまり残念がっている様子もなく、蒼は言った。

「このヒスイはね、そういうんじゃないのよ。もっと、わたしの根っこのところにあるもの。家族って言った方がいいかなあ」

「家族?」

家族という言葉に、藍は、ハッとなった。いや、少しズキンとした。家族という言葉を聞いて思い出すのは、やっぱり、父さんのことだ。

蒼は死んじゃっているわけだから、悲しい家族との別れを経験しているはずだ。

「蒼の家族って、どんな人たち?今も生きてるの?」

ためらいがちに聞いてみると、意外な答えが返ってきた。

「わたしね、孤児なのよ。親も兄弟もいない。施設の前に捨てられてたんだって。ユウ君と同じね」

あまりにも、あっけらかんと言うので、藍は、思わず聞き返してしまった。

「・・・それ、本当?」

「うん、本当。もしかしたら、それが理由でユウ君の担当にさせられたのかもしれない。閻魔大王様って、似た境遇の人を担当に指名するって聞いたから」

驚いた。蒼がユウ君と同じ孤児だったとは、本当に驚きだ。

でも、似た境遇の人を担当に指名するという蒼の理屈には、あまり信ぴょう性がないと、藍は思った。

だって、自分は孤児じゃない。

「もしかして、わたしは孤児じゃないよって思ってる?」

「え?う、うん・・・」

「つまり、こういうことよ。あなたは、ユウ君を救うために必要だった。まあ、おまけみたいなものね」

「え~っ。もう、はっきり言うのは、どっちよ?人をおまけ呼ばわりして!」

思わず体を起こして怒る藍を見て、蒼は、してやったりというふうに笑った。

「そうそう、その元気!その元気があれば、大丈夫だって。藍には、シリアスに悩んでる姿なんて似合わないよ。もっと、気楽にいこうよ」

そう言われて、藍は、振り上げたこぶしを慌てて引っ込めた。

そうか。たしかにシリアス路線は、わたしには向いてないかも?

悩んだって、泣いたって、今ある現実が変わるわけじゃないから、それなら、蒼が言うように気楽に構えていた方がいい。

「それより、どうせ頭を悩ますなら、ユウ君を死神から切り離す方法を考えようよ。とにかく、ユウ君と仲良くならなきゃ。あなた、橙真君に負けてるよ?」

「う~む、そうなんだよね。橙真って、子供の扱いがうますぎるんだよ。役の肩代わりしてもらっちゃだめ?」

「だめ。あなたの運命は、あなたの問題なんだから。自分の力でやるしかない」

「やっぱり、そうか」

腕組みをして考え込んでみたものの、特にいいアイデアは浮かばない。

明日からも、桜公園に通い続けて、少しずつユウ君と仲良くなっていくしかないが、それで間に合うだろうか?

お母さんのところへ行きたい、つまり、極端に言ってしまえば、死んでしまいたいというユウ君の気持ちを変えていくには、もっと、インパクトのある出来事が必要だ。

「ありきたりかもしれないけど、ハイキングに誘うってのはどう?何かイベントに参加すると、それで急に心の距離が縮まるってことあるじゃない?遊園地の方が喜ぶかもしれないけど、ああいうところだと、お化け屋敷とかあって死神が潜みやすくなる」

「ハイキングかあ。そうだね、それいいかもね。でも、そうなると、今のユウ君のお父さんとお母さんに許可をもらわないと」

「あいさつに行けばいいよ。わたしは、ユウ君の友達です。今度、ハイキングに行く予定があるんですけど、一緒にどうですかって」

かなり空々しい気がしないでもないが、もう、そうするしかない。なんと言っても、期限は一か月しかないのだから。

結局、藍は、蒼のヒスイについての話は聞けなかった。すごく聞きたい気持ちはあるけれど、生前は孤児だったという話と合わせて、根掘り葉掘り蒼に質問するのは、よくないことのように思った。

ただ、ひとつだけわかったことがある。それは、つらい運命を背負わされているのは、自分だけじゃないということ。

みんな大変なんだなあと、藍は、どこかのおばあちゃんにでもなったような心境で、しみじみと思った。

まだ、十四歳にして、なかなか達観した中学生である。

 

その夜、藍は、なんだかんだ言いながら、蒼との会話が功を奏したのか、いつの間にかすやすやと眠ってしまった。

悩んでいると言いながらも、いったん眠りに落ちると朝まで目が覚めないのだから、自分でも大したものだと思う。

けれども、夢を見た。

父さんの夢だった。

父さんだけでなく、母さんもいる。

ああ、あの夢を見ていると、藍は夢の中で思った。

いつも見るハイキングの夢。

蒼がハイキングに行こうなんて誘うものだから、こんな夢を見てしまったんだと、冷静に考えている自分がいた。

実際に家族でこのハイキングに出かけたのは、藍が小学校に上がったばかりのころのことだった。

父さんも母さんも、まだまだ若くて、藍は、母さんとお弁当のおかずを買いに出かけたり、大好きなお菓子をナップサックに詰めたりと、前の晩からワクワクしっぱなしだった。

そのうち、夢であることも忘れてしまって、現実との区別がつかなくなり、「ああ、なんだ、父さん元気じゃん。そうだよ、父さん、死んでなんかいないよ」なんてことを思ったりした。

うれしかった。

家族全員で生きていることが、こんなにもうれしく、尊いものなのだということを、藍は心の底から実感した。

ゆるやかな山道を娘の手をとって歩く、父さんの横顔が笑っている。振り返ると、そのすぐ後ろで母さんも笑っている。

いつまでも、こんな楽しい時間が続いてほしいと藍は思った。

それで、思い出した。

そうだった。父さんに首飾りをプレゼントするんだった。

大きくて青いプラスチックのペンダントを、七色のビーズでつないだ首飾り。

今思えば、小学生の幼い子供の発想でしかなかったが、藍としては、おまじないの意味を込めるつもりだった。父さんが、火災の現場で、決して危険な目に合わないようにって。

藍は考えたのだ。

この首飾りを「わたしの代わりだと思って、お仕事の時も持っていてね」と言って渡せば、父さんは、身の危険を感じるような過酷な現場で無理をしないでくれるはずだと。

だって、父さんは、いつも藍のことを「大好きだよ」と言ってくれるから。

藍のことが大好きな父さんに、いつも自分のことを思い出してほしい。たとえ人命救助のためだとしても、家で藍が待っていることを思い出してくれれば、荒れ狂う炎の中に飛び込むのを踏みとどまってくれるかもしれない。

だから、藍は、心を込めてビーズの首飾りを作った。

次の父さんの誕生日にプレゼントとして首飾りを渡すと、父さんは、うれしそうに目を細めて喜んでくれた。そして、「どんな時も、肌身離さず持ち歩くようにするよ」と約束してくれた。藍が、しつこくそうするよう頼んだからだ。

それ以来、藍は、事あるごとに、父さんに首飾りを持っているか確認するようになった。

父さんは、「もっと、父さんを信じてくれよ」と言って嘆いていたが、十歳を過ぎても変わらない娘からの問いかけにまんざらでもない様子だった。

それなのに・・・。

 

ハッと目が覚めると、カーテンの隙間から朝日が漏れていた。

また、あの夢か・・・と、藍は、ぼんやりと目を開けたり閉じたりしながら思った。

ただひとつだけ違うのは、服を着たまま川に飛び込むシーンがなかったことだ。いつもだったら、この後、唐突に川に飛び込む自分がいるはずなのに。

藍は、ベッドから起き上がると、勉強机のいちばん上の引き出しをそっと開けてみた。

そこには、夢の中に出てきた首飾りがぽつんと入れられていた。手に取って顔に近づけてみる。気のせいかもしれないが、かすかに焦げた臭いがした。

昨夜、蒼は、藍から死んでしまった経緯を尋ねられ、ヒスイの首飾りを見ながら、昔のことを思い出したと言った。

けれども、そのヒスイの首飾りを眺めながら、藍も、父さんにあげた首飾りのことを思い出していたのだ。

父さんが死んだ時、首飾りは、父さんのもとになかった。

一緒に消火活動にあたっていた同僚の隊員の証言によれば、燃え盛る炎の向こうで泣き叫ぶ子供の声が聞こえたという。

火災は、激しさを増す一方で、直前に撤退命令が下っていたらしい。

だが、父さんは、その撤退命令を無視して炎の中へ飛び込んでいった。「やめろ」と引き止める同僚に、父さんは、防火服の下から取り出した藍の首飾りを預け、こう叫んだ。

「これを娘に返してやってほしい」

可燃物であるプラスチックを身に着けるのは、消防士としては、ご法度だ。

「娘を連れていくわけにはいかない」

驚く同僚が聞いたその一言が、父さんがこの世に残した最後の言葉となった。

翌朝、ようやく鎮火した火災現場から、小さな女の子の遺体を抱き抱えた父さんが発見された。体中が焼け焦げて、あまりにも無残な姿だった。

病院で父さんと対面した藍は、その非現実的な光景に言葉を失った。

こんなこと、あるはずかない。父さんが死んでしまうなんて、そんなこと、絶対に起こるはずがない。

藍は、父さんの体に顔をうずめながら、どういうわけか涙も出なかった。隣にいる母さんだけが、藍の代わりに、少女のような泣き声をあげていた。

白い布をかけられた父さんの枕もとには、藍の首飾りが置かれていた。父さんのために藍の作った首飾りが、父さんの形見の品となった。

今、ビーズで作られたおもちゃの首飾りを見つめながら、藍は、やっぱり、自分も父さんの後を追いかけたいと思っているのだと思った。だから、一か月後に死んでしまうなんてことになってしまったのだ。

でも、藍は、死ぬわけにはいかない。藍が死ぬということは、ユウ君の命まで奪われてしまうことになるからだ。

首飾りを引き出しにしまい、バシバシと両手でほっぺたをたたく。カーテンを開いて窓を開ければ、青い空に白いわた雲の浮かぶ素晴らしい五月晴れだ。

やるしかない。

がんばっちゃいけないとか言われる世の中だけど、がんばらないとどうにもならない時というのは、確かにあるのだ。

学校に着いてから、ハイキングの計画を橙真に相談してみた。

「いいんじゃねーの。ユウ君の今の両親から家での様子を聞いてみるのも、意味があると思うぜ」

橙真は、そう言って、すぐに賛成してくれた。

「今日、学校の帰りにユウ君の家に寄って行こうと思うの。場所は、蒼に聞いたから、多分、わかると思う」

「それなら、おれも一緒に行くよ。二人で行った方が、不審がられないだろ?」

小さいころからそうだったけど、いざという時、橙真は、本当に頼りになる。一言で言うと、面倒見がいいのだ。

それが、男女を問わず橙真が人気のある理由なのだが、藍に対してだけは、ぶっきらぼうというか、普段から「関係ねーよ」的な態度を取り続けているので、今日みたいに肯定的な橙真は、素直にうれしくなってくる。

早速、放課後になるのを待って、ユウ君の家に向かった。

一緒に帰ろうというクラスメイト達の誘いを断って、久しぶりに橙真と並んで教室を出たものだから、「えっ、えっ、二人って、そーゆー関係?」とか「藍の宣戦布告?他の女に橙真君は渡さないわって感じ?」などと、黄色い歓声が後ろから追いかけてくる。

もう、もともと、クラスメイト全員が幼なじみで、男女を問わずだれがだれと帰ろうが何とも思わないようなド田舎なのに、今さら、みんな、何言ってんのよ?

後からわかったことだが、このころの橙真は、明らかに様子がいつもと違っていたらしい。

藍の名前を口にすることがすごく多くなり、授業中に藍の姿を盗み見ているなんてこともあったという。

学校でも二人でいる時間が長くなったのは確かだし、それは、ユウ君のことで相談をしていただけなのだけれども、事情を知らないクラスメイト達が勘違いするのも無理のないことかもしれなかった。

とにかく、藍は、そんな冷やかしに多少の優越感を抱きながら、ユウ君の家に向かった。

橙真はと言えば、いつものふくれっ面で、女子たちの笑い声などおかまいなしといった感じである。

「なあ、こうしている間も、蒼さんたち、近くにいるのかな?」

「うん?どうだろう?家でも、必要以上に姿は見せないけど」

そんな会話をしたとたん、「いるよ、すぐ上に」と蒼の返事が聞こえてくる。見上げると、蒼がぷかぷかとシャボン玉のように宙に浮いている。

う~ん、この知らない間に防犯カメラで監視されている感じ、ちょっと、ドキッとさせられる。

でも、こうして四六時中、すぐ近くで死神の襲撃から守ってくれているのだと思うと、こんなに心強いことはない。

「なあんだ、そこにいるなら、ユウ君の家のナビしてよ」

「だってぇ、お二人の邪魔しちゃ悪いしぃ」

クラスの女子からからかわれても無反応だった橙真が、蒼のおどけた言葉には、なぜか慌てている。「べべ、別に悪くないですよ」なんて、妙にかしこまった言い方が、かわいらしい。

 

ユウ君の家は、桜公園からほどなく、五分程度のところにあった。閑静な住宅街の閑静な赤い屋根の家である。

一見して目に付くのは、屋根裏部屋らしき窓がついていること。

蒼の気配を察知したのか、ここでユウ君の身の安全を守っているアカ子とムラサキ殿、ミドリちゃんが、その小さな窓から体をギュウギュウさせながら、いっぺんに出てきた。

幽霊だから、多少の体形の変化は問題ないようだが、ひとりずつ出てくればいいのに。

「早く早く、今ならユウ君もいるし、両親も在宅中でござるよ」

あらかじめ、経緯を知っているらしいムラサキ殿が、空から手招きをして言った。

こういうところ、幽霊たちの間には、以心伝心というか、人間にはわからない通信手段があるようだ。

便利でいいなあなどと思ったが、考えてみれば、人間だって電話をかければいいだけのことである。

「死神のやつ、さすがに姿を見せないぜ」

アカ子が、退屈そうにあくびをして言った。

この人は、とにかく敵を見つけてバトルをしたいらしい。生きていたころから筋金入りのヤンキーだったことは間違いないが、案外、好きな男の人には一途で純情なのだと蒼が教えてくれた。

いちばんわからないのは、ミドリちゃんである。

このこけしみたいな女の子は、いつの時代からやってきたのか知らないが、ずいぶんなじんだ今となっても、ビジュアルが強烈である。相変わらず、ケケケと笑いながら、肩コリをほぐすくらいの感覚で首を一回転させている。

ピンポーン。

玄関のチャイムを押して、待つこと数秒。「はい」という女の人の声が、インターホンのスピーカーを通して聞こえてきた。

「あ、あの・・・、わたしたち、ユウ君の友達ですけど、ユウ君いらっしゃいますか?」

自分自身がユウ君くらいの年頃だったら、外から「ユウ君、あっそびましょーっ!」って、でっかい声で叫ぶこともできるが、中学生でそれをやったら、変質者と間違われておまわりさんを呼ばれてしまうだろう。

家の中から出てきた年配の婦人を見て、ちょっと緊張した。

この人が、ユウ君の新しいお母さん?ううん、おばあちゃんかも?

そう思ったとたん、その旦那さんと思われる男の人が、少しいぶかしげな表情で後ろから顔をのぞかせた。

「ユウのお友達?あなたたち、中学生?」

夫人の声は、柔らかく優しげだった。ユウ君とは、ずいぶん年齢の離れた友達の来訪に興味津々の様子である。

「えっと、いつも桜公園で会うんです。友達と言っても、それだけなんですけど」

藍が、たどたどしくそう答えると、「ああ、聞いてます。ユウがあなたたちのことを聞かせてくれるのでね」と、旦那さんの方が顔をほころばせて言った。

えっ、そうなんだ・・・。

こちらの方が、驚かされてしまった。まさか、ユウ君が現在の家族に自分たちのことを伝えているとは思ってもみなかった。

が、同時に不安にもなってきた。ユウ君は、蒼たちのことを、なんて話しているのだろう?

「お化けのお友達ができたなんて言うもんですから、びっくりしていたんですけど、ちゃんと人間でよかった」

ああ、そういうことですか。小さな子供の言うことだと思って、仔細は突き止めていないみたい。

「そ、そうなんですよ。ユウ君ったら、わたしたちのこと、お化けだと思っているみたいで。アハハハハ」

これで、一気に会話がしやすくなった。藍は、ここぞとばかりに話を進めた。

「それで、今度の日曜日にハイキングに行く予定なんですけど、ユウ君も一緒にどうかなって」

「まあ、ハイキング?ユウも誘ってくださるの?」

どうやら、年齢は還暦を過ぎているようだけど、やっぱり、今いる二人がユウ君を施設から引き取った新しいお父さんとお母さんであるらしい。

「でも、ユウみたいな小さな子を押し付けて、ご迷惑にならないかしら?」

少し心配そうに、お母さんが言った。

「それなら、ご一緒にどうですか?行先は県境の山を巡るハイキングコースだし、日曜日は晴れるみたいですから」

すかさず、橙真が口をはさんだ。

うそ?ユウ君の両親も一緒に呼ぶの?そんなことして、大丈夫?

藍が、思わず横目で見ると、橙真は、「任せとけ」と言わんばかりの自信に満ちた表情で、こちらを見返す。

「どうしましょう?ハイキングなんて、足腰が追いつくかしら?」

お母さんが、ちょっと不安げに旦那さんを振り返る。

「まあ、皆さんがいてくれるなら、大丈夫なんじゃないか?ぼくたちが一緒でも、ユウも行きたがるよ。とにかく、ユウを呼んでくるよ」

お父さんが、乗り気で答えてくれたので助かった。

でも、今の言葉、少し引っかかる。「ぼくたちが一緒でも行きたがる」って、どういう意味だろう?

しばらくして、お父さんとともに玄関口まで出てきたユウ君の顔は、真っ白というか、表情がないというか、まるで置物のようだった。

もともと、そんなに明るい感じの子ではないけれども、怒っているみたいに固く口を閉ざして、わずかな感情の波すら見えてこない。

「今度の日曜日、お兄さんとお姉さんがハイキングに連れていってくれるって。お母さんたちも一緒だけど、行く?」

お父さんに手をつながれたまま、ユウ君は、お母さんの問いかけに首をかしげて、体をくねくねさせている。

きっと、恥ずかしいのだと藍は思った。ということは、本当は行きたいと解釈してもいいのかもしれない。

「ねえ、行こうよ。お姉ちゃんが、おいしいお弁当、作ってきてあげる」

食べ物で釣るのはどうかと思うが、この際、何だっていい。ユウ君が来てくれさえすれば、それでいいのだ。

すると、何を思ったか、お父さんの手をふりほどいたユウ君が、わざわざ靴を履いて藍のお腹のあたりに飛び込んできた。

突然の行動にびっくりした藍だったが、何これ?小さな子供に抱きつかれる、この感覚、いやじゃないかも?

そう思った。

「なあ、行こうぜ。今は、まだ早いけど、夏になったらクワガタやカブトムシのいそうなところ、兄ちゃん探してやるからさ」

ここでまた、橙真がユウ君の頭をなでながら付け加える。

「クワガタもいるの?」

「夏になったらだけどな。これでも、兄ちゃん、虫取りの名人なんだぜ。夏になったら、また、連れてってやるよ。今回は、その下見」

「ホントに?それなら行く!」

ユウ君は、相変わらず体をくねくねさせていたが、橙真の自信に満ちた言葉を聞くと、目を輝かせて笑った。「今泣いた鳥がもう笑う」という言葉がぴったりなくらい、うれしそうに。

「まあ、こんなこと初めて!」

そんなユウ君の反応を見て喜んだのは、藍よりも、むしろユウ君のお母さんだった。隣で、お父さんも、感慨深そうにうなずいている。

「ハイキングコースと言っても、ユウ君に合わせて無理のないところまでにしますから、安心してください。当日の朝、ぼくたちがお迎えに上がります」

橙真ったら、中学生にして、どこかの営業マンみたいな口ぶりだ。

そこから先は、話がとんとん拍子に進み、出発の時間や持ち物など、今度の日曜日のハイキング計画が、その場でまとまってしまった。

橙真、あんた、すごすぎるよ!ユウ君のご両親を巻き込むことで、思惑通りの展開に持っていってしまうなんて。

 

「よかったね。うまくいったじゃん」

ユウ君の家を後にすると、すぐに蒼が声をかけてきた。

「家では、ほとんど口をきかないって聞いてたから、ちょっと、心配してたけど」

行きと同じく、蒼は、ぷかぷかと空中を遊泳しながら、ぽろっとこぼした。

「えっ、そうなの?」

「うん、まだ、ご両親に遠慮があるのか、ユウ君がなじめないのか、あまりいい親子関係とは言えないみたい」

そんな前情報があるなら、先に教えてほしかった。口をとがらせて文句を言ったら、「そうしたら、もっと緊張していたでしょ?」と、切り返されてしまった。

むむむっ、たしかに、その通りだけど。

「あの子、わたしとそっくりなんだよ」

突然、隣から声が聞こえてびっくりしたら、そこには、ミドリちゃんがいた。

この子には、その登場の仕方といい、ビジュアルや言動といい、どうしても驚かされてしまう。

でも、いつもとは何となく違うミドリちゃんのうつむきかげんな様子に、藍は戸惑った。違うと言っても、見た目は、相も変わらず、こけしみたいなんだけれども。

「あれ、ユウ君のそばにいなくていいの?」

「うん、アカ子姉とムラサキ殿がいてくれるから大丈夫。ヒヒヒ」

いつも語尾につける、ケケケとかヒヒヒとかいう、この不気味な笑い方、何とかならないだろうか?

すると、ミドリちゃんは、そんな藍の気持ちを推し量ったかのように、「わたし、こけしみたいでしょ?」と、いきなり言った。

「えっ、・・・ううん、そんなことないよ」

「ごまかさなくてもいいよ。わたしだって、自分のこと、そう思ってるもん。ケケケ」

まるで、心の中を見透かされているようで、藍は、ドキッとなった。

「でも、仕方ないんだよ。自然にこうなっちゃったから。だれかに本当の心を打ち明けられずにいると、顔が人形みたいに固まっちゃうの。一生懸命、笑おうって思うんだけど、そうすると、口だけが笑ったふりをしちゃうの。ヒヒヒ・・・、ほらね?」

ミドリちゃんの告白を聞いて、藍は、何も言えなくなってしまった。

もちろん、ミドリちゃんのことをバカにしていたのではない。からかうつもりなんて、これっぽっちもなかったし、たしかに気味が悪いと感じていたのは事実かもしれなかったが。

でも、ミドリちゃんは、藍が思っているよりも、ずっと深く自分自身のことがわかっているのだ。

そう気がつくと、藍は、自分がすごくいやらしい人間に思えてきた。

ごめんなさい、ごめんなさい。たしかに、わたし、あなたのこと、こけしみたいだって思っちゃってた。不気味だって、怖がっちゃってた。

「ユウ君も同じなんだよ。本当の気持ちを言えないから、顔がわたしみたいになっちゃってる。ほっといたら、本当にこけしになっちゃう」

「・・・・・」

「だから、ユウ君を笑わせてあげてね。ユウ君が笑えば笑うほど、あなたの運命も変わっていくはずだから」

ミドリちゃんは、そこで、初めて笑った。初めて笑ったというのは、その笑顔が、ごく普通の少女のそれだという意味だ。

「う、うん。わかった。必ずそうしてみせるよ」

「約束だよ。じゃあね、ケケケ」

結局、最後は、いつもの「ケケケ」を残してミドリちゃんは消えていったが、なんだか、そよ風が通り過ぎていったような、さわやかな後味だった。

わざわざ藍の後についてきたのは、今の話をしたかったからなのだろう。

「わたし、ミドリちゃんに悪いことしちゃったかな」

「悪いこと?何で?」

藍がポツンとこぼすと、蒼がキョトンとした目でこちらを見た。

「本当は、ミドリちゃんのこと、こけしみたいだって思ってたこと。知らないうちに、彼女のこと傷つけてたのかなって」

「ああ、そんなの気にしなくていいよ。あれで、本人は、けっこう不気味ちゃんが気に入ってるんだから。意味もなく首をクルクルさせるとこ、おもしろがってるでしょ?不気味だろうが、気持ちが悪かろうが、それならそれで生きてく場所はあるんだよ。あっ、もう死んじゃってるのか」

蒼は、そう言いながら、あっけらかんと笑う。

本当に、このマイペースというか、楽観的というか、物事のとらえ方が自由なところ、藍は、自分も見習いたいなと思う。

そうだな、ミドリちゃんの言う通りだな。

つまりは、ユウ君を笑わせればいいのだ。笑えば、死は遠くなる。死神が、近づきにくくなる。

でも、人を笑わせるって、なんて難しいことなんだろう。

「とにかく、今度の日曜日、がんばろうぜ。おれ、事が大きく動く気がする」

橙真が、藍を元気づけるようにそう言った。

「事が動くって?」

「そいつは、わからない。けど、そんな予感がするんだ。おれの勘、けっこう当たるんだぜ」

本当かどうか知らないが、そう言われると力が湧いてくる。

「そうだよ、そうだよ。動いてくれなくっちゃね。死神対策は、こっちに任せて!」

蒼の言葉も、胸に響いた。

二人の励ましを受けて、藍も気持ちを入れ直した。

あれこれ考えているより、自らが信じないと。ユウ君の気持ちが変わって、死神が退散すること。そして、そのことによって自分自身の運命も変わるのだということ。

まだ、生きていけるのだ、生きる力が残されているのだということを自らが信じないと、何も始まらない。

えいえい、おーっ!なのだ。今時、えいえい、おーっ!なんて、選挙の時のおじさんたちくらいしかやらないけれども、今の気分は、えいえい、おーっ!だ。

そのくらい、メンタルを奮い立たせないと、あの死神は倒せない。