第八章

まるで、灼熱の太陽が突如として現れたかのように、全ての闇を照らした。

固く閉じたまぶたの奥にも、その光は容赦なく入り込み、続けて鼓膜が裂けるような轟音が鳴り響いた。

核分裂を思わせる圧倒的なエネルギーを浴びて、藍は、自分が死んだことを実感した。

ああ、死んじゃった。さすがに熱いだろうと覚悟してたけど、そうでもなかったな。

多分、龍の炎のパワーがすごすぎて、わたし、一瞬で蒸発しちゃったに違いない。理科の授業で習った「気化」ってやつ。

最後に蚊取り線香の煙みたいになってしまったのは、ちょっと、わびしかったかな?

でも、黒焦げの炭になったわたしの遺体をみんなに見られるよりは、まだ、ましかも。特に、橙真には、そんなひどい姿を見られたくないし。

まあ、死んじゃったら、記憶も何もなくなっちゃって、生きていた時のわたしのことも覚えてないわけだから、考えたって仕方ないか・・・。

って、あれ?わたし、考えてる?

「はぐっ?」

藍は、思わず空気を吸い込み、目を開けた。

息できる?えっ、えっ、なんで?

もう一度、息をしてみる。大丈夫、ちゃんと、空気が吸い込める。

呼吸のことばかりに気を取られていたが、気づけば、周囲の闇は消え失せている。龍の炎に照らされているのではない。

藍の体は、雲の合間からもれる朝日に包まれていた。陽光が、ほんのりと暖かい。

「・・・どうなってるの?」

ふと、周囲に目線を配れば、しりもちをついた母さんが、驚いたようにこちらを見ている。

思わず突き飛ばしてしまった橙真も、同じ顔をしている。

ユウ君がいて、蒼がいて、ナナもいて、黄門様とミドリちゃんも、目を大きく見開いて、口をパクパクさせている。

「わたし・・・、生きてる・・・?」

藍は、自分の体を見下ろした。

龍の炎を浴びて気化したはずの体は、気化などしていなかった。ちゃんと、胸もお腹もあるし、手も足も付いている。

「藍よ、よくぞ、最後までがんばったな」

聞きなれない声に顔を上げると、まるで剣のように、腰に長いしゃくを携えたひとりの青年が立っている。

その、この世のものとは思えない威厳と美しさに満ちた容姿には、見覚えがあった。

「あっ!」

藍が、声にならない声で叫ぶ背後から、「あああっ!」と、その三倍は大きい悲鳴を、蒼があげた。

「そんなに驚かずともよい。わたしのことは、知っておろう」

青年は、静かな目をして藍を見守っている。

「えっ、えっ、えんまだいおうたま!」

あまりにびっくりしすぎて、藍も蒼も、舌が回らなくなってしまった。

いったい、何が起こったというのだろう?

ついさっきまで、巨大な龍とそれを操るマイティロボがいて、藍たちは、絶体絶命のピンチにおちいっていたはず。

藍は、てっきり自分の体が龍の炎で燃やし尽くされたと思い込んでいたが、それは、思い込みにすぎず、目を開けると、そこには閻魔大王様がいた。

ってことは・・・。

「ま、まさか、マイティロボは、閻魔大王たま・・・」

「そなた、本当に気づかなかったと見えるな。蒼やナナに龍が炎を吐かなかったのを見て、不思議に思わなかったか?」

「そそそ、そう言えば・・・」

藍は、ブルブル震える唇を何とかしようと、自分で自分のほっぺたをピシャリとはたいた。

痛い。痛いってことは、やっぱり、わたしは生きているんだ。

生きている!

藍は、もう一度、自分の体を見下ろした。両の手のひらに視線を落とし、その手のひらを空に掲げて見せた。

ミミズだって、カエルだって、わたしだって生きている!

そうだ、生きているんだ!

「やったあっ!」

こんなにも、心の底から「やった」を叫んだことは、十四年におよぶ藍の人生の中で初めてに違いなかった。

そりゃ、叫ぶよね?てっきり死んだものと思っていたら、五体満足で生きているんだから、だれだってうれしいに決まっている。

でも、次の瞬間。

「ひゃあ!」

藍は、続けざまに悲鳴をあげた。知らなかったとはいえ、わたし、閻魔大王様にずいぶんひどい暴言を浴びせたような。

すると、またまた、藍の背後から、「ひ、ひ、ひやあ~っ!」という藍の三倍はありそうな蒼の絶叫がとどろいた。

そうだった。

蒼なんて、あろうことか、例の睡眠薬入り栄養ドリンクを閻魔大王様に飲ませてしまったんだっけ。

しかも、眠ったところを、「スパッとやっちゃって!」なんて、思いっきり汚いやり方で葬り去ろうとした。

「うひいっ!」

蒼は、地面におでこをぺったり付けて、閻魔大王様の前にひれ伏した。

この人、さっきから奇声しか発していない。

「えええ、閻魔大王たま、おおお、お許しください!まっ、まっ、まさか、閻魔大王たまが、人間界にご降臨あそばされるとは、ゆっ、ゆう、夢にも思わずう~」

猫を相手にしてるんじゃないんだから、そろそろ、「たま」「たま」って繰り返さない方がいいと思うよ?

藍は、あきれて蒼を眺めていたが、その時、藍の気持ちを代弁するように、「キャハハ!」と笑う者がいる。

「たま、たまって、なんかかわいいね!クルルちゃん、その呼び方気に入っちゃった!これから、クルルちゃんも、閻魔大王たまって呼んでいい?」

もう、まったく場違いなほど明るくて、かつ、キャピキャピすぎるしゃべり方としぐさ。自分のことをクルルちゃんと呼ぶところなんかも、いかにもという感じで、こういう女の子のことを正真正銘のぶりっ子というのだろうか?

そのかん高い声に、ひれ伏していた蒼が、顔を上げた。目が、逆三角形の白目になっちゃってる。

「クルル、少し静かにしていなさい」

閻魔大王様にたしなめられたこの女の子こそ、蒼が目の敵にしていた許嫁、クルルちゃんだ。

「きゃい~ん、怒られちゃった。クルルちゃん、龍になって、がんばったのにぃ」

いじける姿まで、もう絵に描いたようなブリブリ。ここまで徹底していると、あっぱれと感心したくなる。

まあ、それは、ともかくとして。

つまり、このクルルちゃんが、さっきの龍だったというわけである。

閻魔大王様にしろ、このクルルちゃんにしろ、二人には、様々なものに変化する力が備わっているらしい。

「藍よ、許せ。全ては、そなたの心の強さを確かめるために、わたしが仕組んだこと。蒼とナナに相反する命を下したのは、そなたを通して、皆に命の尊さをわかってもらいたかったからだ。蒼とナナ、わたしが意図することがわかるか?」

閻魔大王様は、恐れおののいている二人に向かって、問いを投げかけた。

「わわわ、わかります!多分、わかったと思います!」

素直な蒼は、何がどうわかったのかはともかくとして、オウム返しに答えた。

「ナナはどうか?」

閻魔大王様の視線は、ナナひとりに集中した。

ナナは、蒼の隣で同じく額を地にすりつけていたが、再度の問いに、少しだけ頭をもたげた。

「閻魔大王様。わたしを地獄へ落としてください。わたしは、言い訳のできない過ちを犯しました。大切なユウをひとり置き去りにし、親友の蒼まで死なせてしまった。わたしひとりが死ねばよかったのに、多くの人たちを不幸に巻き込んでしまいました。もはや、地獄へ落ちるのがふさわしい身の上なのです」

それは、ナナの心からの言葉だったのだろう。

自分の子供の命を救うために、他人を殺そうとしたことに引け目を感じている哀れな死神。そんな自分は、地獄にたたき落されるべきなのだと。

しかし、それを聞いた閻魔大王様は、烈火のごとく怒った。

「ナナよ、まだ、わからぬか!なぜ、おのれを卑下する?なぜ、未来へ目を向けぬのだ?そなたに欠けているのは、運命に立ち向かう勇気だ。絶体絶命の危機の中で藍が見せた勇気を、そなたも見たであろう。逃げてはならぬ。ナナよ、どんなに過酷であったとしても、おのれの運命から逃げてはならぬのだ」

「閻魔大王様・・・」

「そなたは、最後の最後で、藍を手にかけることができなかった。その慈しみの心を大切にせよ。そなたには、地獄はふさわしくない。よいかナナ?もはや、冥界の住人となってしまったそなたではあるが、人々のためにできることは、まだあるのだ」

閻魔大王様は、そこまで言うと、懐から取り出した申し送り状に視線を落としながら、やや改まった調子で新たな命を下した。

「ナナ、今日を持って、死神の任務は解除とする。今後は、蒼たちと力を合わせ、わたしが指名した次の死亡予定者の命を救うために尽力せよ」

「蒼たちと・・・?」

「そうだ。任務を遂行できなかった罰だ。蒼よ、そなたも、藍を守り切れなかった点については、ナナと同罪だ。引き続き、レインボーチームの長として任務を全うせよ」

「ははは、はいっ!」

蒼は、はじかれたように返事をしたが、すぐに首をかしげて、ナナと顔を見合わせた。

「ってことは、わたしたち、これから、ずっと一緒にいられるんですね!」

やっぱり、蒼は、能天気だ。閻魔大王様から叱られていることも忘れて、急に明るい笑顔になっている。

でも、そんなに浮かれてばかりはいられないのだ。だって、ユウ君の問題が残っている。ユウ君が、母親であるナナと離れ離れになってしまうという現実だけは、何がどうあっても変えられないのだから。

ユウ君は、ようやく目を覚ました白井さん夫妻のもとにいたが、その瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が流れている。

「閻魔大王様。やっと、お母さんに会えたのに、お別れしなくちゃいけないの?」

そんなユウ君の問いに、さすがの閻魔大王様も、言葉を詰まらせた。

せっかく再会できた母と子なのに、生と死の壁は、どうしたてって二人を引き裂いてしまう。

ところが、そこへ助け船を出したのは、なんとクルルちゃんだった。

「そんなことないよ!ユウ君のお母さんは、死神から幽霊になるんだから。化けて出れば、いいだけだよ。ねっ、お兄ちゃん!」

クルルちゃんは、そう言って、閻魔大王様を振り返った。閻魔大王様も、小さくうなずく。

「確かに幽霊であるからな。ユウの枕もとへ現れたとしても、何ら問題はない。わたしから許可を出そう」

相変わらずハイテンションなクルルちゃんだけど、どうも、ユウ君のことがかわいくて仕方ないらしい。

「ね?だから、これからも、お母さんには会えるんだよ。何なら、クルルちゃんも一緒に来ていい?クルルちゃん、いろんなものに変身できるから、楽しいよ?わんことかにゃんことか・・・、そうだ、恐竜にだってなれるよ。ユウ君、恐竜好き?」

枕もとに恐竜って、ちょっと、すごい光景だけど、ユウ君は、しっかりとうなずいた。

ナナが、ユウ君を抱き寄せる。

「これから、この子のことをお願いします。わたしのような母親失格者が言えることではないですけど、どうか、ユウを大切に育ててやってください」

ナナは、そう言って白井さん夫妻に深々と頭を下げた。

黄門様とミドリちゃんに連れてこられた白井さん夫妻だけど、一度、気を失った後は、それなりに耐性がついたらしい。

「わたしたちこそ、あなたの代わりはできませんが、ユウのことは、お任せください。それでいいかい、ユウ?」

白井さんのだんなさん、いや、新しいお父さんが尋ねかけると、ユウ君は、今まででいちばんの笑顔でうなずいた。

「うん。ぼく、新しいお父さんとお母さんのうちで暮らすね。だから、お母さんも、時々、遊びに来てね」

ああ、この言葉を聞きたかったのだ。

藍は、ずっと、ユウ君のこの言葉を聞きたいと思って行動してきた。

この言葉を聞けた時は、ユウ君が、死の運命から解放された時。つまり、藍もまた、生きていくことが約束された時なのだ。

「藍、よくがんばったね」

母さんが、そう言って藍の体を抱きしめた。隣にいる橙真は、確かめるように藍の顔をのぞき込む。

「本当に生きていられるんだな?藍、おまえ、本当に死なずに済んだんだな?」

驚いたことに、橙真は泣いていた。母さんも泣いている。母さんの涙は、これまでにも何度か見てきたけれど、橙真の涙は、これが二度目だ。

そして、藍も、もちろん泣いていた。どしゃ降りのような、涙だった。

悲しい涙より、うれしい時の涙の方が、いっぱい出るんだな。

藍は、そんなことを考えながら、どういうわけか、この時になって思い出した。

「・・・あれ?お兄ちゃん?」

はっきり言って、藍には、どうでもいいことなのかもしれないが、今、電流が走ったように思い出した。

さっき、クルルちゃんが閻魔大王様に呼びかけた時の言葉。

「おおおっ、お兄ちゃん?」

蒼って、どうして、わたしと同じタイミングで反応するんだろう?しかも、声の大きさが、またまた三倍だ。

「お兄ちゃんって、お兄ちゃんって・・・、今、そう言いました?」

目をピンポン玉のように飛び出させて、クルルちゃんに詰め寄る蒼。

顔、怖すぎ・・・。

「うん。今じゃないけど、さっき、言ったよ」

「お兄ちゃんって、閻魔大王様のことですよね?」

「そうだよ?わたしのお兄ちゃん」

「許嫁じゃなかったんですか・・・?」

「許嫁って、フィアンセのこと?どっから、そんな話出てきたの?」

「・・・・・」

たぶん、さっきの龍がクルルちゃんではなくて、本物の龍だったとしても、今の蒼なら勝てるだろう。

「ムヒッ、ムヒッ、ムヒヒヒヒッ!」

気持ちの悪い笑いに、藍はドン引きだ。

「そうか・・・、そうだったのか!」

ひとりで納得している蒼に、閻魔大王様が、あきれ気味に言った。

「わたしは、閻魔大王だ。宇宙の始まりから終わりまで、そういう役割を持っているのだ。人間のように、結婚など、するはずがなかろう」

考えてみれば、もっともだ。見てくれはアイドルだけど、閻魔大王様は、人間ではない。

どうせ、蒼の早とちりだったのだろう。そそっかしくて、やきもち焼きの蒼のことだから、クルルちゃんを見た途端、勝手に妄想してしまったに違いない。

「もう、ほんと、人騒がせなんだから!」

藍が文句を言うと、閻魔大王様が、思い出したように言った。

「そうだ、人騒がせと言えば、蒼、そなた、わたしの公文書館に忍び込んだらしいな。警備の鬼どもを先ほどの栄養ドリンクで眠らせたと聞いたが」

「えっ!」

喜んだのもつかの間、忘れていた犯罪歴を持ち出されて、蒼は、またまた、地にひれ伏すことになった。

「いえ、それは、今回のミッションにどうしても必要だったからで、けっして、悪さをしようと思っていたわけでは・・・」

いやいや、侵入そのものが、いけないことだから。

そう突っ込もうとして、藍は、はたと思いとどまった。

「結局、閻魔大王様の公文書館で何を調べてきたの?わたしの命を救うよう閻魔大王様にお願いしたのが父さんだったって話は聞いたけど、他にもあったんでしょ?わたしにも、教えてよ?」

考えてみれば、最後に残された謎は、その一点だけだ。

蒼は、おでこに土をつけたままの顔で、大真面目に言った。

「死神の正体よ。ユウ君に取りついている死神が、なんで、藍を襲うのか不思議だったから。ハイキングに行った時のこと、覚えてる?わたし、あの時、死神がナナじゃないかって気づいちゃったのよね。たぶん、ユウ君も、同じだったと思う。だから、それが事実かどうか、閻魔大王様の公文書館で確かめたかったのよ。藍に本当のことを言わなかったのは、死神の正体がナナだとわかったら、あなたが自ら死を選ぶんじゃないかと思って怖かったからよ」

なあんだ、そういうことだったのか。蒼ったら、隠してないで、全部話してくれたらよかったのに。

そう思う一方で、藍は、確かに蒼の言う通りかもしれないと納得した。

死神の正体がナナで、藍の命をねらった理由が、ユウ君を生かすためだとわかっていたら、藍は、自分の命を差し出してしまっていたかもしれない。

事実、巨大な龍を前にした時、藍は、死を覚悟していた。「わたしの命が欲しいなら、好きなように奪えばいい」などと、閻魔大王様の前で啖呵を切ってしまった自分の行動を振り返ると、今さらながら、足がガクガクと震えてくる。

「藍って、普段は、何をするにもおっかなびっくりなのに、いざとなると、勇気百倍だから手に負えないのよね。お父さんと似ているんだよ。だれかのために、一生懸命になりすぎる。自分では、そんなことないって思うかもしれないけど、あなたって、ハイパーレスキューそのものなのよ」

ああ、ハイパーレスキュー・・・。

今は、その単語が妙に懐かしい。

ユウ君を助けようとして荒れ狂う川に飛び込んだ藍の姿は、自らの命も顧みず人命救助にまい進するハイパーレスキューそのものだった。

藍は、「お父さんと似ている」と言われたことがうれしかった。今は、もう会えないけれど、父さんの魂は、わたしの中で生きているんだと思った。

「どうやら、落ち着くところに落ち着いたようだな」

閻魔大王様が、藍と蒼、二人の様子を眺めながら言った。

一度も笑った顔を見せない閻魔大王様だったけれど、この瞬間だけは、瞳の奥が笑っているように、藍には思えた。

「蒼よ、公文書館侵入の罪は、不問とする。これからは、ひとりで悩まずに、わたしに相談しなさい。レインボーチームの長なのだからな。ついていく皆も、安心するだろう。そうだ、弾き飛ばしてしまった二人のことを忘れていたな」

そう言って、閻魔大王様がパチンと指を弾くと、飛んでいった時と同じ「ぎょえぇぇぇぇぇっ」という悲鳴とともに、アカ子とムラサキ殿が地の果てから引き戻されて来た。

地面の上にそっと下ろされて、「な、何が、どうなったの?」と、二人でキョロキョロとあたりを見回している。

「二人とも、ご苦労さん。一件落着ってことよ」

不可解な顔をしているアカ子とムラサキ殿に向かって、蒼が笑いかけた。

黄門様とミドリちゃんも、やれやれといった調子で肩をすくめている。仲良く並んでいると、やっぱり、おじいちゃんと孫のように見えてしまう。

「それでは、クルル。わたしたちは引き上げるとしよう。蒼よ、次の仕事について伝えたいから、少し疲れをいやしてからわたしのもとに来なさい。レインボーチームの皆もご苦労であった」

閻魔大王様が、クルルちゃんに目配せをする。

クルルちゃんは、別れの間際、蒼のもとにやってきて耳打ちするように言った。

「よかったね。蒼ちゃんは、お兄ちゃんのお気に入りなんだよ。今度、遊びにおいでよ。お兄ちゃんのこと、いっぱい、教えてあげるから」

「えっ、あ~はいっ!」

この時の蒼の顔ったら、もう見てられない。目をウルウルさせて、口からよだれが垂れそうになっている。

「いいから、早く来なさい・・・」

さすがの閻魔大王様も、予測不可能なクルルちゃんの一言に慌てた様子だ。

「それでは、さらばだ。藍、達者でな。よきものを見せてもらった。感謝するぞ」

閻魔大王様が、片腕を振り上げると、寄り添ったクルルちゃんともども、一瞬の閃光とともに空高く消えてしまった。まるで、流れ星が、逆に地上から飛び上がったような速さだった。

その、かすかに空に残った光の残像を見上げながら、蒼が晴れやかに言った。

「やれやれ、終わった、終わった!」

その通り、終わったのだ。

この一か月間、さんざん藍を苦しめてきた死との戦いが、ついに終わった。藍は、運命を克服して生を勝ち取り、今日から始まる未来を生きることになる。

全て大勝利。なんだかんだ言って、蒼の予言した通りになった。

けれども、藍の胸を突き上げてきたのは、喜びとは別の感情だった。

「もしかして、お別れ?」

恐る恐る聞いてみた。

蒼は、笑顔のまま、藍を振り返った。

「なあに言ってんだか。これで、やっと、幽霊から解放されるんだよ?除霊したわけでもないのに」

カラカラと笑う。

「そんな、除霊なんてするわけないじゃん・・・」

どこか、的外れなことを言ってしまった。

すると、蒼は、真顔になって藍の肩に両手を置いた。

「よかったね。生きられて」

「・・・・・」

「本当のこと言うとね、今まで、生きられなかった人たちを何人も見てきたんだ。わたしやナナも同じだけど」

藍は、びっくりしたように顔を上げた。

「でも、藍は違うって思った。あなたは、困難に立ち向かえる子だから。閻魔大王様だって、藍がそんな子だから、助けようとしたんだと思う」

こんな澄んだ瞳で人から見つめられたことは、初めてだと藍は思った。

急に涙があふれてきたのは、悲しかったからだろうか?うれしかっただろうか?

そうだ、わたしはうれしかった。蒼に出会えて、わたしは、本当にうれしかった。

だから、そんな蒼との別れの時が来たことを、つらく思う。

「蒼!」

藍は、思いきり蒼の胸に飛び込んだ。

わずか、一ヶ月の間だけだったのに、もう何年も同じ屋根の下で暮らしてきたような気がした。

「蒼、行かないでっ!」

「・・・・・」

「これからも、うちにいてよ!わたしのベッド、使っていいから。おやつだって、食べちゃっていい。ね、そうしよう?」

「・・・・・」

もしかしたら、蒼とは、生まれる前から一緒だったのかもしれない。

生まれる前、前世の話。藍と蒼とは、連星と呼ばれる二つの太陽のように、たがいに寄り添い回転しあってきたのかもしれない。

いや、蒼だけではない。他のみんな、橙真や母さん、ユウ君とその家族。レインボーチームのみんなも。

互いに引き合い関連しあって、宇宙の中を巡っていく。生まれたり死んだりを繰り返しながら、離れることなく。

時には、喧嘩もするけれど、やっぱり、みんなが大切な人たち。そんなみんなが、今という時を生きている。

蒼は、藍の体を抱きしめた。強く強く、抱きしめた。

蒼の胸の中で、藍には、その顔は見えないけれど、首筋にぽたぽたと蒼の涙が伝った。

蒼の涙は、温かかった。

幽霊なのにね。蒼の涙は、温かいんだ。

「ありがとう、藍・・・」

蒼は、かすれた声で言った。

「でもね、わたしには、次の仕事があるんだ。閻魔大王様が言ってたでしょ?だから、行かなくちゃならない」

「・・・・・」

「世の中には、困っている人とか、悲しんでいる人が、いっぱいいるの。藍と同じようにね。だから、わたしはその人たちのところへ行って、生きていけるように手助けしたいんだよ。それが、閻魔大王様から与えられた仕事だから」

藍は、顔を上げた。涙の向こうにある蒼の顔が笑っている。笑いながら、泣いている。

「また、会える時が来るよ。藍がピンチの時には、必ず来る。そうだ、虹だよ、虹。わたしたちが出会った時、大きな虹が出たでしょ?あれは、レインボーチームが行動を開始する時の合図なんだよ。空にすごい虹が現れたら、わたしたちが何かやってると思っていい。今までの五人にナナを加えて六人。その六人で次のひとりを救い出すの。ハイパーレスキューみたいで、かっこいいでしょ?」

蒼は、冗談めかして言ったが、あまり、冗談に思えなかった。

「わたしだって、まだまだ、蒼の助けが必要なのに」

そう言ったら、思いっきり笑われてしまった。

「何言ってんの?藍には、橙真君がいるじゃない。橙真君だって、レインボーチームの一員なんだよ?それも、いちばん頼りになるね」

突然、話を振られた橙真は、真っ赤になっている。

「ま、まあ、困ったことがあったら、いつでも、おれに言えよ・・・」

言わされているというか、言わなくちゃいけない面持ちで答えた。その緊張した様子がおかしくて、蒼は、さらに笑った。

「藍には、感謝してる。本当に救われたのは、わたしたちの方かもしれないんだ。この一ヶ月、本当に楽しかった。藍のことは、忘れない。絶対に忘れないよ」

「・・・蒼」

「泣かないで。泣いたら、別れが、もっとつらくなっちゃうじゃないか。最後は、笑顔で見送ってよ」

そういう蒼だって、今もまだ、目から涙がこぼれている。やっぱり、笑いながら泣いている。

藍は、別れが避けられないことを受け入れるしかなかった。

どんなことにも、始まりがあれば、必ず終わりの時が訪れる。蒼と過ごしたかけがえのない日々は、今、藍の中で思い出のひとつになろうとしていた。

藍は、あふれる気持ちをこらえて、声を絞り出すように言った。

「わたしも、蒼のこと忘れない。つらいことがあったら、いつも蒼のことを思い出す。蒼にもらった命だもん。わたし、一生懸命生きるね。蒼に恥ずかしくないように生きる。だから・・・」

藍は、泣き笑いの顔で声を大にした。

「だから、あんまり無茶しないでね。酔っぱらって、どんちゃん騒ぎしちゃだめよ。鬼の皆さんも、あんまり怒らせないでね。本当に、目的のためなら、どんなことだって、しちゃうんだから」

最後の方は、やっぱり、声が上ずってしまった。

でも、本当に言いたいのは、こんなことじゃない。藍は、胸いっぱいに息を吸い込んで、叫ぶように声を張り上げた。

「でも、そんな蒼が大好き!わたし、蒼が大好きだよ!」

いちばん言いたい言葉は、いつも、シンプルだ。シンプルすぎて、余った思いが、涙に変わる。

蒼は、藍のその言葉をかみしめるように聞いていた。一瞬、ハッとしたように声を詰まらせたが、すぐに元気いっぱい答えた。

「わたしもだよ。わたしも、藍が大好き!いい?う~んと、幸せになるんだよ。わたしたちの分まで、弾けちゃうくらい幸せになるの。藍は、わたしの希望なんだからね」

二人で、もう一度抱き合う傍らで、ユウ君もナナとの別れを惜しんでいる。

「本当に枕もとに出てくれる?」

「もちろんよ。お母さん、いっぱい化けて出てあげるからね。でも、新しいお父さん、お母さんのことも大切にするのよ?」

そんな、どこかおかしな会話をしている。

まったく、幽霊って楽しい。こんなに楽しい幽霊がいっぱいいて、そうだ、やっぱり、世界って楽しい。

「さあ、そろそろ、わしらも行くぞい。次の仕事にかからにゃあ」

黄門様の言葉に、ミドリちゃんが続けた。

「そうだね、次のだれかが、待ってるもんね」

ミドリちゃんの口調からは、いつの間にか、例の「ケケケ」とか「ヒヒヒ」が消えている。

「元気でやれよ。おれたちも応援してるからよ」

「まったく、役立たずで面目ない。手品を教えてほしかったら、いつでも請け合うでござるよ」

アカ子とムラサキ殿も、それぞれのスタイルで別れを言った。

そして・・・。

「蒼!」

「藍、ずっと見てるよ!わたし、ずっと、あなたのことを見守っているからね!」

蒼は、そう告げると、すっと藍のもとから離れて宙に舞い上がった。その背中に羽が生えているように見えたのは、気のせいだろうか。

レインボーチームのみんなも、蒼に続いて宙に浮かんだ。

蒼が手を振る。

「さようなら!」

藍は、別れの言葉を胸の奥深くで聞いた。

「さようなら・・・」

返事をしたいのに、思うように声が出ない。

「さようなら」

蒼の声は、繰り返されるたびに小さくなっていく。それと同時に、レインボーチームのみんなの姿が薄く透明に変わっていった。

「さようなら!」

藍も、出ない声を振り絞って、必死に別れを叫んだ。何度も何度も叫んで、最後には、再び声がかすれてしまった。

「さよなら・・・蒼」

後に残されたのは、藍たち、この世の住人だけである。急に、世界が色を失ったように思えた。

「行っちゃったね」

「うん・・・」

「あっという間だったな」

「うん・・・」

母さんと橙真から声をかけられても、藍は、「うん」しか言えなかった。ここで何かしゃべったら、また、泣き出してしまいそうだったから。

でも、わたしは、もう泣かない。

藍は、心の中で、そう決めた。

だって、泣いてばかりいたら、蒼に申し訳ないもの。蒼が生かしてくれた命なんだ。これからの人生、う~んと幸せになって、いっぱい笑って過ごさなきゃ。

「みんな、格好がボロボロだね」

残された人たちを眺めながら、藍が笑って言うと、橙真があきれたように肩をすくめた。

「だれのせいで、ボロボロになったと思ってんだよ?」

本当に、藍も橙真も母さんも、ユウ君も、そして、そのお父さんとお母さんも、みんな、ひどいなりをしていた。特に川に入った三人は、悲惨だった。

「さあ、帰りましょ。とんだ真夜中のハイキングになってしまったわね」

母さんの言葉に、みんながうなずく。

そうだ、帰ろう。わたしたちが住む家に。

また、あわただしい毎日が始まるのだ。

忙しいのは、蒼たちばかりではない。むしろ、現実世界に生きる藍たちの方が、これからもいろんなことに遭遇して、大忙しになるに違いないのだ。

それでも、帰途についた藍の足取りは軽かった。ユウ君の手を引くと、ユウ君は、顔を上げてにっこりと笑った。

「橙真兄ちゃんも、こっちの手持って」

言われるままに、橙真がもう一方のユウ君の手を取る。

前回のハイキングの時と同じように、そんなふうに三人仲良く歩いたが、途中から白井さん夫妻にバトンタッチした。

新しいお父さん、お母さんに挟まれて、スキップをするユウ君。それを見ているうちに、藍も甘えた気分になった。

「わたしにも、同じことして」

藍は、母さんと橙真に両の手をつないでもらって、ご機嫌だった。

藍は、思った。

橙真の先には、父さんもいてくれるに違いない。きっと、いる。わたしたちは、目に見えないものからも守られているのだ。

世界は大きい。それを信じられれば、たぶん、現世での悲しみも、半分くらいになるはずだと。

朝日に照らされた青い空に、風に流された雲が、筋状に広がっている。

迎えるはずのなかった朝を迎えて、藍は、一歩一歩を踏みしめるようにして、わが家への道をたどり始めた。