第六章

一夜明けて藍が目覚めると、もう、母さんは、布団の中にいなかった。

キッチンの方から、朝食の準備のための水音や食器の音が聞こえてくる。

藍は、慌てて起き上がり自分の部屋に戻ったが、そこで、衝撃の事実が発覚した。

「おはよう、藍。落ち着いて聞いて。昨夜、死神がここにやってきたよ」

蒼が、開口一番にそう言った。

「うそ・・・」

「われながら、読みが当たったね。わたしを藍と勘違いして襲ってきたのよ。そろそろ、やってくると思ってたけどね」

そう言えば、「たまには、親子水入らずでひとつの布団に入ってきなよ。お互い、話したいこともあるだろうしさ」とか言って、藍に母さんの部屋で寝るよう促したのは、蒼だった。

蒼には、予感があったのだ。だから、藍のベッドにもぐり込み、派手に寝息まで立てて死神をおびき寄せた。

「それで、どうなったの?」

「すぐにわたしだと気づいて、逃げてった。レインボーチームのメンバーが、あとひとりいたら、取り押さえられていたんだけどなあ」

蒼は、かなりくやしそうだ。

「蒼、すごい・・・」

さすがに、藍は感動した。昨夜、蒼のことをおっちょこちょいだと言った自分を反省する。

「まあ、あちらさんも、焦っているってことだね。どうして、焦っているのか、不思議だけど」

その通り、死神は、何のために藍を追いかけてくるのだろう。

黙っていても、藍は、死ぬ運命にある。死神が、わざわざ命を取りに来る理由は、どこにもないはずだ。

「藍、しばらく、学校を休んだ方がよくない?母さんも、仕事を休むから」

思いもかけず、朝食の時に、母さんからそう提案された。

どんなことがあっても、仕事を休むなどと言ったことは一度もなかった母さんだったから、藍は、驚きを隠せなかった。

が、言われてみれば、母さんの訴えは、もっともだ。自分の娘の命がかかっているこの時に、日常の常識は通用しない。

「家から出たら、危険が増えるでしょ?交通事故にあうかもしれないし、だれかに襲われるかもしれない」

交通事故の可能性はある。

だれかに襲われる可能性は、すでに経験済みだ。襲ってくる相手は、人ではない。死神だ。

「大丈夫よ、母さん。わたしには、蒼がついていてくれてるし。それに、何もしなければ、かえってわたしの死は避けられないんだよ。ユウ君を救わなきゃ」

それでも、母さんは、藍のそばから離れるのをためらっていたが、「母さんが仕事しなかったら、病院で亡くなる人が出るかもよ。わたしの代わりに」と娘から釘を刺されて、やむなく病院へ出勤していった。

母さんを説得するために出た言葉だったが、言った直後に、そこに真実があるような気がした。

だれかの犠牲の上に自分の幸福を築き上げるわけにはいかない。自分の運命は、自分の力で変えていくしかないのだ。

ひょっとしたら、これが今生の別れになるかもしれない。

そんな思いから、この日の玄関先での二人のやり取りは、まるで映画のワンシーンのような壮大なものになった。

二人でひしと抱き合って、目を真っ赤にさせているから、通勤や通学途中の道行く人たちが、何事かと振り返った。

その後、学校へ行ってからも、蒼は、一瞬たりとも、藍のそばから離れなかった。下手をすると、トイレの中にまでついてきそうな勢いだった。

その、いつになく真剣な姿勢に、藍は、いよいよ、事態が大詰めに差しかかったことを実感した。

期限の一か月まで、あと二日に迫っている。

事態は、思いがない形で展開した。

 

その日、何事もなく帰宅した藍と蒼のもとに、突然、ミドリちゃんが現れた。

「た、大変だよ!ユウ君が、病院からいなくなっちゃった!」

「ええっ!」

驚きの声をあげたのは、藍だった。

ユウ君は、その後、病状が治まって、明日にも退院できるはずだった。結局、今回の高熱は、ユウ君の死とは何の関係もなかったわけが、それだけに、次に何が起きるか予測不可能になった。

そこへ、ユウ君行方不明の連絡である。

もう時間が残されていないことから考えると、これこそが、ユウ君の死につながる直接の原因であることは疑いようがない。

「今、アカ子姉とムラサキ殿が探しに出てる。今から、わたしも出るところ」

「待って、それなら、わたしたちも行くよ!」

時刻は、夜の九時。すでに、外は真っ暗になっている。

当然のように藍を引き止めたのは、定時で仕事から帰ってきていた母さんだった。

「こんな時間から出かけるつもり?それこそ、あなたの身に何かあったら、どうするの?」

これほどまでに必死な母さんの顔を、藍は見たことがなかった。けれども、藍だって、負けないくらい必死である。

「母さん、ユウ君が死んだら、わたしも死ぬのよ。もう、行くしかないの!」

「だったら、母さんも行く!あなたが死んだら、母さんも一緒に死ぬから!」

まるで、世界の終わりがやってきたかのような心境だった。

いや、まさしく世界の終わりである。藍や母さんにとっては、自らの死は、世界の終わりと同じ意味を持っている。

涙を浮かべて、ひしと抱き合う親子だったが、そこへ、蒼が割って入った。

「ちょっと、待ったあ!二人とも、死ぬの決定な会話しないで!そうならないために、わたしたちがいるんだから」

「そうよ、そうよ!わたしが、三百六十度、首を回してユウ君を見つけ出してあげるよ!」

もはや、レーダーのように、首を回し続けているミドリちゃんも、蒼と一緒になって声を張り上げた。

何とも奇妙な光景だったが、藍はともかく、初めてミドリちゃんに会ったはずの母さんも、悲鳴をあげたりはしなかった。

もはや、娘の命を救うためなら、幽霊だろうと化け物だろうと、力になってくれる者は拒まないといったところなのだろう。

「とにかく、みんなで、手分けしてユウ君を探そうよ。橙真君と黄門様にも連絡して」

蒼の言葉で、藍たちは、家を飛び出した。

街灯もまばらな、田舎である。こんな夜更けに、行方不明となった小さな子供を探し出すのは、容易なことではない。生身の人間である藍と母さんにとっては、手にした懐中電灯だけが頼りである。

そこへ行くと、幽霊である蒼やミドリちゃんは、夜の世界こそ快適であるらしく、水を得た魚のように自由に飛び回っている。

すぐに合流した黄門様だけが地上を歩いて、足もとのおぼつかない藍と母さん、そして、橙真の道先案内を務めてくれた。

「橙真ごめんね。こんな時間に付き合わせちゃって」

悪びれたように言う藍に向かって、橙真は、厳しい目で言葉を返す。

「何言ってんだよ。おまえの命がかかってる時に、じっとしてられるわけないだろ?」

「家の方は大丈夫なの?ご両親には、何て言って出てきたの?」

「何も。言ったら、出てこれねえしな。言っても、信じてもらえねえしな」

確かに橙真の言う通りで、今さら事情を説明しても、気味悪がられるばかりで、納得してもらえるわけがない。

「藍、おれたちのそばを離れるなよ。何が起きるかわからないからな」

「うん、絶対に離れない。橙真、わたしと手をつないで。母さんも」

藍は、自分の持っていた懐中電灯を橙真に渡すと、左右から橙真と母さんに手をつないでもらった。

こうしていると、父さんが生きていたころのことを思い出す。

小さいころの藍は、いつも父さんと母さんの間に割って入って、こんなふうに手をつないでもらっていた。手をつないでいると、こんな暗闇の中でも、少しは安心できる。

その時、藍は、心臓がズキンと鳴るのを感じた。もちろん、心臓は一定の速度で動いているのだが、それとは違うズキンである。

藍は、死のカウントダウンが始まったと思った。一瞬、呼吸が苦しくなるようなズキンなのだ。

しばらくして、また、ズキン。もうしばらく歩くと、そこでもズキン。

けれども、藍は、口に出してそのことを伝えることはしなかった。これ以上、橙真や母さんの不安をあおるようなことはしたくない。

病院の近くの繁華街まで来たが、どの店もとっくに閉まっていて、人気は全くなかった。

こんなところをこんな時間に歩いている藍たち三人は、明らかに普通には見えなかったはずだ。パトカーにでも出くわしていたら、間違いなく職務質問されていたことだろう。

「いったい、どこへ行ったのかのう?街中に隠れているとは思えんが」

黄門様が、首をかしげて言う。

「そもそも、どうして病院から抜け出したのか、わからないしな。明日には、退院できるはずだったんだろ?」

橙真の問いに、藍は答えた。

「その予定だって聞いてるけど。熱も下がって、元気にしてたみたい」

「ってことはさ、明確な理由があるはずなんだよ。だれかに誘われたとかさ」

「誘われた?誰に?」

「決まってるだろ?つまり・・・」

橙真は、その先の言葉を濁した。藍の母さんがいる前で、死神の話を持ち出すべきではないと判断したのだろう。

つまり、死神がユウ君を誘い出した。橙真は、そう言いたいのだ。

胸のズキンが、また鳴った。手をつないでいる、橙真や母さんに伝わるのではないかと思えるほど、大きな音で。

「ああ、みんな、来てくれたんだ?ごめんよお、全部、わたしのせいだ~っ!」

病院の上空からあたりを監視していたアカ子が、藍たちの姿を見つけて降りてきた。アカ子にしては、珍しく頭を抱えて弱気になっている。

「そんなことはない。拙者のせいでござる。ちょっと、目を離したすきに・・・、不覚でござった」

さすが、ムラサキ殿。チェーンを振り回すヤンキー女子を、腰に刀を差した浪人風のサムライがかばう姿は、何とも感動的・・・というか、やっぱり奇妙だ。

「ユウ君のご両親には、話は伝わってるのかしら?」

「ああ、病院がすぐに連絡を取ってた。警察にも通報したみたいだぜ。パトカーが、あっちこっち走り回ってる」

なるほど、ということは、藍たちが、パトカーに出くわさなかったのは、本当に偶然だったようだ。

おかしなのは、それほど本格的な捜索が始まっているというのに、いっこうにユウ君が見つからないことだ。

橙真が言うように、もしも、ユウ君が死神に誘われていたのだとしたら、その行先はどこなのか?

いちばん考えられるのは桜公園だったが、そこは、ユウ君が行きそうな場所として、真っ先に探してある。

ユウ君は、いなかった。

「この前、ハイキングに出かけた場所は?」

ここへ来て、蒼が、思いもかけないことを言い出した。

「まさか、こんな真夜中に?真っ暗だよ」

「わたしたちみたいな案内人がいれば、行けるよ」

蒼の言う、わたしたちみたいな案内人とは、死神に他ならない。

そうだ、死神ならユウ君を誘い出せる。そのまま、人目のつかない山中に連れ出して、殺してしまうつもりかもしれない。

「おのれ、死神のやつめ。拙者が成敗してくれようぞ!」

不意にムラサキ殿の口からそんな言葉が飛び出し、藍も橙真も固まった。

「死神?」

ぎょっとしたように聞き返したのは、母さんだ。

「死神がいるの?そうか、幽霊がいるくらいだから、死神がいたって不思議じゃないわね」

もう、ムラサキ殿ったら、何で死神のこと、言っちゃうかなあ?

思わぬ失言に緊張の藍だったが、母さんはと言えば、今ひとつ、そこのところへの反応が鈍い。ここまでくると、余計なことを考えている余裕などないのだろう。

「とにかく、そこへ行ってみるぞい。最近の蒼の勘は、冴えとるからのう」

黄門様の言う通り、蒼の勘は冴えている。昨夜だって、死神の襲撃を察知して、返り討ちにしようとしていたくらいだから。

こうして、先日のハイキングコースをたどり始めた一行ではあったが、真夜中の山道は、予想以上の暗さだった。

歩きなれた道なら、まだともかく、もはや、懐中電灯くらいでは、自分たちがどこを歩いているのかさえわからない。蒼たちがいてくれなかったら、間違いなくこちらの方が迷子になってしまっていたことだろう。

ハイキングコースを進み始めてしばらくすると、蒼が、前方に鋭い視線を走らせながら言った。

「気配がある」

藍は、自分の右斜め上に浮かんでいる蒼を仰ぎ見た。

「気配?」

「異様なものの気配。間違いない、死神だよ」

「ユウ君は?ユウ君も、そこにいるの?」

「そこまでは、わからないわ。わたしたち幽霊が感じ取れるのは、死んだ人間やあの世の世界からやってきた魔物の類の気配だけだから」

蒼は冷静に答えたが、藍の方は、口から心臓が飛び出してしまいそうなほど緊張した。

いや、ユウ君も、必ず一緒にいるはずだ。こちらは、同じ人間だからこそ感じられる、生きた勘だ。

「これって、気をつけた方がいいかも。わざと、こっちに気配を悟らせているような気がしない?」

ミドリちゃんは、さんざん回し続けていたレーダー首を止めて、今はまっすぐに前だけを見ている。

「だとすると、やつの目的は、何なんだ?」

アカ子が、らんらんと目を光らせて、ひとりごとのようにうなった。

「まさか、藍殿の命でござるか?」

ムラサキ殿の問いかけに、その場にいただれもが、それしかないと思った。

藍も、それを確信した。

今まで、三度も命をねらわれた。今回こそ、死神は、藍を仕留めにやってくるはずだ。

橙真と母さんは、幽霊たちの会話に耳を傾けながら、二人とも口を真一文字に結んで何も語らなかった。ただ、藍の手を握る力に、強い力がこもっている。

この二人、藍を守るためなら、どんな手段もいとわない構えだ。

 

視界は、突然、開けた。

うっそうと茂る木々の間を抜けると、そこには、ゴルフ場のような草原が広がっていた。青白い明かりが、藍たちの顔を照らし出す。

「こりゃあ、見事な月じゃのう。まるで、昼間のようじゃ」

黄門様の言葉に空を見上げると、それまで雲に覆われていた満月が、ぽっかりと顔を出している。

と、その時。

ウオオオオン!という、犬の遠吠えのような声がした。

月夜に遠吠えなんて、狼男でも出てきそうな不気味な音色が、波紋のように、あたりに響き渡る。

藍は、思わず身をすくめたが、その瞳は、ひとりの人影をはっきりととらえていた。

草原を横切るように流れる川のほとり、まさしく、先日のハイキングで死神に襲われたのと同じ場所に、小さな男の子がポツンと立っている。

背を向けてはいるが、間違いなくユウ君だ。だって、ズボンのポケットからは、いつもと同じように、マイティロボが顔を出している。

「ユウ君!」

肩にのしかかっていた重荷が、一瞬にして消え去ったような気分だった。

けれども、ユウ君は、藍の呼びかけにも反応せず、川の水面をじっと見つめているばかりである。

「ユウ君ったら!」

もう一度呼びかけてみたが、やはり、振り返らない。

この川、こんなに激しい流れだっけ?

深夜とはいえ、ハイキングの時ののどかな風景を想定していた藍は、ここに来て、二日前にあった集中豪雨のことを思い出した。

まさか、飛び込もうとしてるんじゃないよね?といういやな予感が、藍の頭をよぎり、背筋を凍り付かせた。

「ユウ君、だめ!そっちは、危ないよ!」

藍は、思わずユウ君に駆け寄ろうとしたが、握られていた橙真と母さんの手が、それを許さなかった。

「藍、なんかおかしいよ。わたしたちから離れないで!」

「でも、ユウ君が!」

「いや、こいつは死神の罠だ!」

橙真の叫びで、藍は、初めて自分たちが置かれた状況を理解した。

ハッと顔を上げると、鎌を振りかぶった死神が、藍たちの頭上に迫っていた。

「キャァァァァ!」

悲鳴をあげてひっくり返った藍を守ろうと、母さんが、その上に覆いかぶさる。橙真は、両腕を広げて、無謀にも素手で死神に立ち向かおうとした。

ところが・・・。

恐怖のあまり、ぎゅっと目を閉じていた藍が、恐る恐る目を開けてみると、自分を抱きしめている母さんの肩越しに、仁王立ちになっている橙真と、さらにその向こうの上空で死神と対峙している蒼の姿が見えた。

蒼は、高く掲げた右手の先から得体の知れない薄緑の光を放って、死神の侵攻を阻止している。

「おのれ、どこまでも邪魔立てをするつもりか?」

怒気を含んだ声を張り上げたのは、死神の方だった。そして、その声に驚いたのは、藍である。

「えっ?うそ?女?」

ハイキングで襲われた時、悲鳴だけは聞いていた。藍に襲いかかってきた死神を、蒼が後ろから羽交い絞めにした時のことだ。

そう言えば、あの時の悲鳴は女のものだったような気がする。

「あなたに、藍は殺させない!ユウ君も殺させない!そんな権利は、死神には与えられていないはずよ」

よく見ると、光を放つ蒼の右手には、輪の形をした何かが握られている。

それは、いつの日だったか、蒼が藍に見せてくれた、大切な人からもらったというヒスイの首飾りだった。

剣とか槍とかではない、なんで、そんな武器になりそうもないもので戦おうとするの?

あっけに取られた藍だったが、直後の死神の反応を見て、さらにあっけに取られた。

「それは・・・」

首飾りに気づいて後ろに飛び退いた死神は、思いがけず、動揺しているように見えた。

「・・・どういうつもりだ?」

心なしか、声が震えている。

「覚えているでしょ?この首飾り。わたしが、いちばん大切な人からもらった宝物」

「・・・・・」

「その人は、施設に入れられたわたしを、だれよりもかわいがってくれた。先生や他の大人たちより、ずっと親身になって、わたしのそばに寄り添ってくれた」

「・・・・・」

もはや、死神の異変は、明らかだった。震えているのは声だけでなく、持っている鎌の刃先にまで及んでいる。

蒼は、後ずさりする死神ににじり寄った。そして、首飾りを両手で包み込むようにして、相手の目の前に持っていった。

「わたしは、戦うために武器は使わない。あなただって、同じよね?鎌なんか持ってたって、本気で使う気なかったじゃない。わたし、この前の戦いで、それがわかっちゃった」

「やめろ!」

「いいえ、やめないわ。どうして、こんなことをするの?関係のない藍を襲うなんて、あなたにできることじゃない」

「やめて!」

死神は、その場から逃げ出そうとしたが、蒼が、その肩をつかんだ。蒼の手は、大胆にも死神の付けている白い面に伸び、そして・・・、それを取り除いた。

「逃げないで、ナナ!」

藍は、瞬きもせずに死神の素顔を見つめた。年齢は、蒼よりも少し上に思われたが、まだまだ若さを残したきれいな人だ。

「ナナ?」

まさか、この二人、知り合いなの?

そう疑問に思うそばから、藍の中で、ひとつの真実が浮かび上がった。

蒼が言っていた、いちばん大切な人、宝物にしていたヒスイの首飾りをくれた人、その人こそが、今、藍たちの目の前にいる死神の正体、ナナと呼ばれる人なのだ。

だが、驚かされることは、それだけではなかった。

死神の素顔を見たユウ君が、まるで術が解けたかのように、急に正気に戻って叫んだ。

「お母さん!」

「は・・・はい?」

こんな緊張感に満ちた場面だというのに、思いっきり、場違いな声を出してしまった。

藍は、慌てて両手で口をふさいで、それから、また、悲鳴にも似た疑問の声をあげた。

「おおお、お母さんっ?」

ど、どういうことなのよ?

つまり、死神の正体は、子供のころ同じ施設にいた蒼にとって大切な人で、その人は、ユウ君の死んだお母さんってこと?

ああ、そうか。だから、ユウ君は、初めて蒼に会った時、不思議そうな顔をしていたんだ。

ユウ君は、もともと、生前の蒼を知っていた。ほとんど消えかかっていた幼いころの記憶の中に、蒼の存在は、亡くなったお母さんの親友として残っていた。

「お母さん!」

今、死の淵からよみがえった人のように、まっしぐらにお母さんのもとへ駆けてくるユウ君の姿に、死神、いや、ナナという名の蒼の幼なじみは、おろおろとよろけながらも、しっかりと、その胸に愛するわが子を抱きしめた。

「あああああ・・・」

声にならない声が、ナナの口からもれる。。

藍も、蒼も、他の全員も、ただただ「あああああ・・・」と言う感じだった。

長い間離れ離れだった母と子が再会して、こんなにうれしいことはない、そう思うのと同時に、二人の間には、生と死という明確な壁があるのだ。

「わたし、白井さんの夫婦を呼んでくる。今ごろ、警察の捜索に加わっていると思うから」

ミドリちゃんが、あまりの事態の重大さに声を震わせて言った。

「それなら、わしもついていくぞい。二人で行った方が、何かと対処できるじゃろうからの」

珍しく、黄門様も、素早い反応をする。

そうだ、それがいい。

これは、白井さん夫妻にも、絶対に知っておいてもらいたい状況なのだ。

黄門様とミドリちゃんを初めて目にした時の白井さん夫妻の恐怖には同情するが、もはや、そんなことは言ってられない。

「ごめんね、大切なあなたを動けないようにして。お母さんだって、言ってあげられなくて、本当にごめんね」

ナナは、そう言って、ユウ君の頭に何度も何度もほおずりした。

そう、ユウ君は、ナナから体の自由を奪われる術をかけられていたのだった。藍をおびき出すために、川のほとりで動けないようにされていた。

でも、最大の疑問はそこだ。

それなら、どうして、ナナは、藍の命をねらうのか?

「ナナ、教えて。どうして、あなたが死神なの?どうして、藍の命を奪おうとするの?ううん、そもそも、どうして死ぬことなんか選んだのよ?自分の子供を置き去りにして」

「それは・・・」

「ユウ君が、どんな気持ちで今を生きているかわかる?親のいない悲しみは、わたしたちがいちばん知っているはずでしょ?」

「・・・・・」

蒼の感情をあらわにした問いに、ナナは、しばらく無言のままだった。

わが子を抱いている彼女の横顔は、喜びに満ちあふれていたし、ユウ君も同じである。

母と子が慈しみ愛し合う光景は、この世で最も尊く美しいものなのだということを、藍は、あらためて知った。

しかし、ようやく次に口を開いた時、ナナは、一転して顔面蒼白になっていた。

「わたしといたら、この子が不幸になる・・・。そう思ったのよ」

「不幸になる?」

「子供のころ、よく二人で話したよね。大人になって子供ができたら、いっぱい甘やかしてあげるんだって。親がいないつらさは、わたしたちの代で断ち切ってやるんだって。あれ、わたしは、本気だったよ」

「わたしだって、本気だったわよ。わたしは、結婚もできないまま、死んじゃったけど」

蒼は、ちょっと恨めしそうに答えたが、ひがんでいるわけでないことは、その真剣な眼差しから見て取れた。

「そうね、蒼は、川に身投げしたわたしを助けようとして死んじゃったんだものね。あなたには、本当に悪いことをしたと思ってる」

「ええっ?」

恐らく、藍にとっては、今のがいちばん衝撃的だったはずだ。

ちょっと待ってよ!ユウ君のお母さんが自殺したって話は聞いていたけど、それを助けようとして、蒼も死んじゃったってこと?

そう言えば、ユウ君のお母さんの遺体が浮かんでいた川の近くで、もうひとり、別の女性の遺体が発見されたって話、白井さんの旦那さんがしてたっけ。

「蒼、その話、本当?」

「バカな話でしょ?幼なじみの自殺を食い止めようと川に飛び込んで、こっちまで死んじゃうなんて。わたしたちって、つくづく芸がないのよ」

「でも、そんな・・・」

「いいのよ。ナナのいない人生なんて、わたしには考えられなかったし。わたしが施設に送られてきた時、そこには、すでにナナがいた。ナナは、わたしより六つ年上なの。わたしは、まだ五歳だった。両親の顔は、少しだけ覚えているけど、わたしを捨ててどこかへ逃げちゃった。借金まみれだったって話は、後から聞かされたわ。それ以来、わたしの家族は、ナナひとりということになった。これが、その証」

蒼は、手にしているヒスイの首飾りを、しみじみと眺めた。

すると、ナナの方も胸の内から同じようなヒスイの首飾りを取り出した。

「これは、昔、施設で出かけたヒスイのアクセサリー作りの教室で作ったものなの。ヒスイには、閉じた心を開くという意味があってね。それで、お互いに首飾りを送りあって、家族の証としたのよ。安物だけど、姉妹ってことね」

蒼は、淡々と語ったが、藍は、そこに自分の思いにも通ずるものを強く感じた。

わたしが父さんに贈ったビーズの首飾りは、もっと、子供っぽいおもちゃでしかなかったけれど、込められた気持ちには、似たものがある。

わたしは、父さんに死んでほしくなかった。だから、危険な火災現場でも、いつも家族のことを思い出せるように、そして、決して父さんが死んでしまうことなんかないようにという願いを込めて、ビーズの首飾りを作ったのだった。

だが、願いは届かなかった。

父さんは死んだ。

そして、蒼もナナも、みんな死んでしまった。

「わたし、結婚なんかするべきじゃなかったのよ。悪い男にだまされて、一生懸命働いて、ようやく貯めたわずかなお金も、全部持ち逃げされちゃった。わたしの人生に、幸福なんて、ありっこない。そう思い知らされたわ」

ナナは、抱いているユウ君の髪をなでながら、愛おしむような目をして話を続けた。

「でも、この子だけは別。この子には、わたしの不幸を背負わせたくない。わたしといたら、いつか、この子にも災いが及ぶようになるに違いない。蒼だって、そう思うでしょ?」

「何言ってんの?ぜんっぜんっ、意味わかんないよ!」

「わたしといたら不幸になるんなら、わたしから離れればいい。わたし、今になって思うの。わたしたちを捨てた両親も、同じことを考えたんじゃないかしらって。だから・・・」

だから、川に身投げしたって言うの?大切なわが子を、ひとり残して。

「ナナは、いつから、そんな身勝手な人になったの?お願いだから、目を覚ましてよ。こんなの、わたしが大好きだったナナじゃない!」

「なんとでも言ってよ。どうせ、わたしは、地獄に落ちるはずの身の上なんだから。蒼は、命がけでわたしを助けようとした功績から今のポジションになっているけど、わたしは、逆。ユウを見捨てた罰として、死神にさせられてしまった。それも、わが子の死をつかさどる死神にね。全部、閻魔大王様からの命令なのよ。わたしは、ユウだけは助けてほしいと懇願した。自分の手でわが子の魂を刈り取るようなことはしたくないって。そしたら、閻魔大王様から提案されたわ。そこにいる藍って子の命を取るなら、おまえの息子の命は助けてやろうって」

「なっ・・・!」

さすがの蒼も、これには、よろけそうになるほど驚いた。

「うそでしょ?そんな話・・・」

「本当よ。それで何度も襲ってみたけど、その度に蒼に阻まれた」

「そ、そんなこと、あるわけない。閻魔大王様が、そんな命令下すわけがない!だって、わたしは、その閻魔大王様から、藍の命を救うよう命じられているのよ」

藍は、二人の会話に耳を傾けながら、ほとんどパニックにおちいっていた。あまりにも驚かされる真実が、次から次へと明るみになって、頭がついていけない。

それでも、ひとつだけはっきりしていることがある。それは、この一か月の間におこった一連の事件の中心に、閻魔大王様が関わっているということだ。

閻魔大王様が、相反する二つの命令を蒼とナナのそれぞれに与えたことによって、今回の謎だらけの事件に発展した。

これは、いったいどういうことなのだろう?

「とにかく、わたしの願いはひとつだけ。ユウに生きていてもらいたい、ただそれだけよ。この子にだけは、幸せな人生を送らせてあげたい。そのためには、その子の命が、どうしても必要なの」

ナナは、足もとに置いてあった鎌を手に取りゆっくりと立ち上がると、ユウ君に優しく語りかけた。

「少し離れていてね。ユウのために、お母さん、やらなきゃならないことがあるから」

「お母さん、何するの?」

「ユウは、何も知らなくていいのよ。お母さん、もう一度だけ術をかけるから、さっきみたいにおとなしく眠っていてね。目が覚めたら、全ての問題が解決しているからね」

けれども、ユウ君は、何かを直感したのか、ナナの足にしがみついて、いやいやをした。

「お母さん、藍姉ちゃんをいじめないで。藍姉ちゃんは、ぼくのために、いっぱい楽しいこととか、うれしいこととかしてくれたんだよ」

「それは、自分が生き残るためなのよ。けっして、ユウのためじゃない。ユウのことをいちばん大切に思っているのは、お母さんなのよ」

ナナは、片手でわが子の体を押しやって自分から離そうとしたが、ユウ君は、頑として、それに従わなかった。

蒼が、真っ青な顔で声を震わせた。

「何よ、それ?ナナに何がわかるって言うの?藍のこと、何も知らないくせに」

「そうよ、知らない方がいいの。知ると、情が移ってしまうから。命を奪う相手のことは、何も知らずにいるのが、死神の正しいやり方なの」

開き直ったように語るナナの言葉に、藍は、本当の恐怖を覚えた。

この人、本気でわたしを殺すつもりだ。

ナナは、なおも食い下がろうとするユウ君を押しとどめながら、小さな声で何かを唱え始めた。それは、ユウ君に術をかけるための呪文に違いなかったが、その時、奇妙なことが起こった。

青く美しかった月夜が一変して、再び闇夜に戻ったのだ。

空を見上げると、分厚い真っ暗な雲が立ち込めて、満月を覆い隠している。

初めは、死神の持つ恐るべき力が天候までも変えたのかと思ったが、なんだか、様子がおかしい。

藍は、急に呪文をやめたナナを凝視していたが、そのナナの目は、驚きに見開かれていた。

「な、何、これ・・・」

ナナの呪文は、ユウ君を一時的に眠らせるものだったはずである。

ところが、ユウ君は眠っていなかったし、ナナの手を払い除けて、その腰のあたりにしがみついている。

逆に動けなくなっているのは、ナナの方だった。

いや、ナナだけではない。

「ナナ、あなた、何の術をかけたの?ユウ君にかけると見せかけて、わたしにかけるなんて、ずるいよ」

恨めしそうに、そう言ったのは、蒼である。

驚いて、藍がまわりを見回すと、蒼とナナ、それにアカ子とムラサキ殿までが、まるで、時間が止まったかのように身動きできずにいた。

「て、てめえ、汚ねえぞ。不意打ち食らわせやがって・・・」

「おのれ、怪しげな呪術を使うとは、卑怯なり!」

アカ子とムラサキ殿が怒りをぶつけたが、ぶつけられたナナは、全力で否定した。

「ち、違う。これは、わたしがやったんじゃないわ。わたしだって、動けないもの」

唖然としていた藍だったが、そこで気づいた。

「わたしは、動ける・・・」

「ああ、おれもだよ」

「母さんも」

橙真と母さんも、口をそろえた。ということは、ユウ君も含めて四人が動けることになる。

つまり、得体の知れない術にかかって身動きできずにいるのは、あの世から来た残りの四人だけなのだ。

「蒼、しっかりして!まったく動けないの?」

「ま~ま~、まったく無理!口以外、どこも動かない!口もうまく回らない!」

「そんなあ!」

頼みの綱の蒼が動けないなんて、どうすればいいの?

そろそろ時間切れで、わたしは、死んでしまうことになっているのに!