終章

あれから、一年がたった。

藍は、その後、死神に襲われたり川に落ちたりすることもなく、ごく普通の日常を送っていた。

五月。みかんの花の咲く季節。

藍は、この春から中学三年生になった。相変わらず、橙真とは同じクラス。二人とも、いよいよ、受験生だ。

クラスメイトのだれもが、藍の身に起こった死との格闘を知らない。にもかかわらず、最近、よく言われるようになった。

「藍ってさ、近ごろ変わったよね?なんか、大人っぽくなったって感じ。もしかして、恋でもしてる?」

どうして、みんな、「大人っぽくなった」を「恋」と結び付けたがるのだろう?

藍は、自分のことを大人っぽいなどと思ったことは一度もないが、恋をしたぐらいで大人になった気分になるのは、ただの錯覚だと考えている。

そういう、中学生の女の子らしからぬ思考感覚が、藍を大人っぽく見せているのかもしれないが、これだと、大人というよりおばあちゃん的発想のような気がする。「大人っぽくなった」と言えば聞こえはいいが、裏を返せば、「老けている」ということでもあるのだ。

「やだやだ、歳は取りたくないもんだねえ」

ある日の下校途中で、藍は、そんなクラスメイトとのやり取りを思い出して、思わず首を横に振った。隣を歩く橙真が、いぶかしそうに顔をしかめる。

「あん?何、いきなり、ばあちゃんみたいなこと言ってんだよ?」

藍は、勝手に口をついて出た言葉にわれながら驚き、慌てて取りつくろった。

「えっ?いやなにね、来年は、もう高校生なんだなあって思ってさ。光陰矢のごとしとは、よく言ったもんだねえ」

「・・・だから、そーゆー言い方が、ばあちゃんみたいだっつってんだよ」

実際には、二人とも、何ひとつ変わっていないといった方が正しいだろう。それなりに背が伸びた気はするが、あまり、それを自覚したことはない。

逆に言えば、時間が止まってしまっている感覚がある。

蒼との別れからも、一年。あれから、蒼とは一度も会っていない。

幽霊というと、人間界では、どこにでも化けて出る存在のように思われているが、実際には、人前に姿を現すためには、閻魔大王様の許可が必要であるらしい。

そう言えば、そんなこと、初めて会った時、蒼が言ってたっけ。

反対に、ユウ君のもとには、週一くらいのペースでナナが顔を出すとのことだった。こちらは、クルルちゃんのおかげだけど。

そのユウ君も、今では小学二年生。わずか一年のうちに、ずいぶん体が大きくなった。

ナナが、いつまでユウ君の枕もとに立つことを許されているのかはわからないが、おかげで、蒼たちが元気でやっていることだけは、伝え聞くことができる。

蒼は、元気にしているそうだ。もちろん、藍だって元気である。

ただ、お互いに一抹の寂しさを抱えていることも事実だった。

藍は、ピンチになったら必ずやってくるという別れ際の蒼の言葉を信じて、何とかピンチにならないかとピンチの素を探してみたが、そんな調味料のようなものは、世の中にそうそう転がっていなかった。

一度、死という人生で最大のピンチを乗り越えてしまうと、他のピンチはピンチにならなくなってしまうのかもしれない。

「なあ、桜公園に寄ってかないか?」

思いがけず、橙真からそんな提案をされて、藍は、快くうなずいた。

寄っていくと言っても、桜公園は、帰り道にある。

桜公園は、好きだ。あの場所でユウ君と出会い、それをきっかけに、蒼がテレビ画面から飛び出してきた。

本当に、たくさんのことがあった。全ては、あの公園から始まったのだ。

けれども、桜公園に到着した二人を待っていたのは、二度のびっくりだった。

ひとつは、そこに、ユウ君の姿があったこと。もうひとつは、そのユウ君のまわりに何人もの友達がいたことだった。

ユウ君は、同じくらいの背格好をしたちびっ子たちと、鬼ごっこをしながら、キャッキャとはしゃいでいる。

当然かもしれないけど、もう、そのポケットにマイティロボはいなかった。

ユウ君は、藍と橙真の姿を見つけると、「あっ、藍姉ちゃん!」と叫んで、駆け寄って来た。「藍姉ちゃん」と言ったくせに、飛びついたのは橙真の方で、「ねえ、グルングルンやって!」と、いきなり催促する。

「え~っ、しょうがねえなあ」

そうぼやきながらも、橙真もまんざらでもない様子で、ユウ君の両脇に手を入れて高く抱き上げると、グルングルンとその場で時計のように回転し始めた。

「わ~っ!」

もう、思いっきり楽しそうな歓声をあげて、ユウ君が笑う。それを見た他のちびっ子たちも、「ぼくにもやって」「わたしにも」と、目をキラキラさせて橙真のそばに寄ってきた。

「よーし、みんな、並べ。ひとり、一回ずつだけだぞ」

なんだかんだ言って、橙真って、子供好きだよね?あんなにかわいい笑顔になっちゃって、子供番組に出てくる体操のお兄さんって感じ。

藍は、見違えるように明るくなったユウ君を眺めながら、ひそかな達成感に浸っていた。

本当だったら、この子は、今、この世にいないはずだったのだ。

自分もいないはずだった。

それが今、一年前とは百八十度変わった明るい笑顔を互いに浮かべて、二人とも生きている。

なんだか、すごいなと思った。何がどうすごいのか、よくわからないけれど、生きているってすごい。

それを与えてくれた蒼って、すごい!

「そうだ、藍姉ちゃん。お母さんが、みんなでハイキングに行きましょうって言ってた」

「えっ、ハイキング?」

ここで言うユウ君のお母さんとは、ナナのことである。

藍の目は、ちびっ子たちにも負けないくらいの勢いで輝き出した。

「それって、蒼たちも一緒ってこと?」

「そうだよ。レインボーチームのみんなで行きたいんだって。今度、大きな仕事があるから、それが終わったあと、会いに来てくれるって、昨夜、お母さんが言ってた」

枕もとに立つ幽霊の話としては、恐ろしく具体的でわくわくさせられる。

藍は、歓声をあげた。

「蒼たちに、また、会えるの?そんなこと、できるの?」

「うん、よくわからないけど、いいみたい。蒼姉ちゃんが企んでるんだって。藍姉ちゃん、企むって何?」

「・・・・・」

う~ん、これって、素直に喜んでいいんだろうか?蒼、また、何かやらかそうとしてるな・・・。

そう思いながらも、それでも、うれしい!もう一度、蒼に会えるなんて、うれしすぎるよ!

ご機嫌な気分でユウ君たちと別れ、再び橙真と二人きりになった。と思ったら、わが家へと続く四つ角を曲がったところで、少し先を歩く母さんの後ろ姿が目に入った。

スーパーからの帰りなのか、買い物袋を手にぶら下げている。

「母さーん!」

大きな声で呼びかけると、母さんは、振り返ってこちらに手を振った。

「今日、休みだっけ?」

橙真が尋ねる。

「非番って言ってた。休みみたいなもんだけど、何かあったら、すぐに病院に駆け付けなきゃいけないってやつ」

「大変だな。人の命を預かる仕事だもんな」

「うん」

本当に橙真の言う通りだと思った。

あれからというもの、母さんは、よく父さんの話を口に出すようになった。

以前は、父さんの話になると、家の中が暗くなってしまいそうで、なかなか口にすることができなかったが、今では、藍も、よく父さんの話題を持ち出す。

録画した『ハイパーレスキュー』を一緒に見たりもする。『ハイパーレスキュー』は、つい先日、最終回を迎えた。最後は、任務中に死にかけた主人公が、仲間の努力で生還したところで終わった。

ファミリー向けのドラマだからね。現実は、そんなに甘くないと言ってしまえば、それまでだけど、やっぱり、ハッピーエンドがいい。

藍も母さんも、フェイスタオルを握りしめて、おいおい泣いてしまった。

「おまえ、高校受験が終わったら、その後、どうするつもりなんだ?てか、将来のこと。進路のこと」

「何の職業につきたいかってこと?」

「そう」

立ち止まって待ってくれている母さんの方へ歩きながら、橙真が、そんな質問をした。

藍は、少し頭を巡らせたが、「やっぱり、看護師かな?」と、案外、すぐに答えた。

「それか、幼稚園の先生。消防士っていうのもいいけどね。どう、女性消防士?かっこいいでしょ?」

「う・・・うん。ま、まあ」

「今、わたしには無理だって思ったでしょ?わかってるわよ。ユウ君を助けようとして、滑って川に落ちるような、そそっかしい人間には、とても無理だってこと」

「・・・まあな」

橙真は、苦笑している。

「ただ、人の命を救う仕事っていいよな?もちろん、看護師や消防士だけじゃないけど。うちみたいな農家だって、人が食べるものを作ってるわけだし」

「うん、そうだね。食べ物なくなったら、生きていけないもんね。それって、立派な人助けだよ」

藍は、うなずいた。うなずきながら、今のセリフ、わたしにしては、なかなか深いなあと、ひとりで感心したりした。

世界には、いろんな人たちがいて、いろんな仕事をして、お互いがお互いを支え合って生きている。

でも、考えてみれば、それは、人間の話だけではないのかもしれなかった。

蒼たちレインボーチームのやっていることも、人の命を預かって、生きさせようとする仕事である。藍も、そのおかげで、今、こうして話をすることができる。

やっぱり、蒼はすごいなと思った。職業はともかく、わたしも、蒼みたいな人になりたい。

その時だった。

「おい、空見てみろ。すごいぞ」

橙真が、驚いたように、行く手の上空を指差した。

藍は、顔を上げた。目の前まで近づいていた母さんも、空を見上げた。

「わあ、こんなきれいなの、初めて見たわ」

ため息をもらす母さんの隣で、藍も、息をのんだ。

三人の視線の先にあるもの。それは、空高く映し出された巨大な虹だった。あまりにくっきりしているので、本当に上を歩いていけそうだ。

すると、ここぞとばかりに、橙真が言った。

「五色だよな?」

藍は、きっぱりと言い返す。

「何言ってるの、七色でしょ?」

この会話、前にも一度したような。

「いや、五色だよ。赤、黄、緑、青、紫。ほら、五色じゃねえか」

「橙色があるでしょ?それと、藍色」

「えーっ、そんなん、影薄くて、わかんねえよ」

こ、こいつ~っ。

額に青筋立てて、藍がキッとにらみつけると、橙真は、こっちを見てにんまりしている。

あっ、また、やられた!というか、初めから、橙真には七色が見えていたんだ。だから、違和感なくレインボーチームの一員になれた。

「わざとだなあっ」

藍がこぶしを振り上げて追いかけると、橙真は、笑ったままの顔で逃げ出した。

「藍色、見えないの?藍色!橙は、あんたの色なんだからね!」

「だから、存在感、薄いんだよ。おまえの色なんか」

二人で母さんのまわりをクルクルと追いかけっこしながら、いつしか、みんなで笑っていた。

笑いながら、藍は、思った。

そうだ、虹だ。この虹の先に、蒼たちはいる。

蒼がいて、アカ子がいてムラサキ殿がいる。

黄門様は、相変わらずだろうか?

ミドリちゃんも、首をクルクル回しているだろうか?

それに、今では、レインボーチームの一員となったナナも、行動をともにしているはずだ。

藍は、立ち止まると、息を切らせながら、もう一度空へ顔を向けた。

あの虹の向こうに、藍の大切な仲間たちがいる。六人で、かつての藍のような、死に直面しているだれかを救おうと奮闘しているに違いない。

「蒼、がんばってね」

藍は、ひとりつぶやいた。

「わたしも、がんばるから」

いつの間にか手をつないでいた母さんと並んで、藍の胸は、高鳴った。

また、蒼に会える日が来る。それまでに、わたしは、少しでも勉強して、蒼に立派になったと言ってもらえる人間になっていよう。

蒼にもらった命だから。この宇宙でたったひとつの、わたしという、かけがえのない命だから。

「そして、また会おうね」

藍の口から、それ以上、言葉がもれることはなかったが、彼女の瞳は、虹に負けないくらい強く輝いていた。

みかんの花の香りがする風が、吹き抜けていく。

その風に髪を揺られながら、藍は、天空に広がる七番目の藍色を見ていた。