11.季節の終わり

センチュリーWADAをめぐる、大河内町での騒動は、連盟から多くの検挙者を出したものの、結局、逮捕状が請求されたのは、会長の小林繁治と副会長の大熊源三郎、二人のみだった。

しかし、その繁治と源三郎も、和田コーポレーションが被害届を出さなかったことから、三日後には、起訴猶予で釈放された。

なぜ、和田コーポレーションが被害届を出さなかったのかは、大きな謎だったが、おそらく、和助の時に続いて、今回も、美雪の父親が関わっているのではないかと、健二は考えていた。

美雪は、あの日以来、一週間近く学校を休んだ。若菜も、同じく教室に姿を見せなかった。

けれども、二人は、ある日、申しあわせたように登校し、教室での再会を喜びあった。

クラスメイトたちは、初めのうちこそ、今回の事件の話題で盛り上がったが、美雪が登校するようになってからは、だれひとり、教室でその話をしようとはしなかった。口に出せば、結局は、美雪を責めることになってしまうと、みんなが知っていたのだ。

事件から十四日後、センチュリーWADA出店反対連盟は、解散した。これによって、和田コーポレーションの勝利は、疑いのないものとなった。

マスコミは、大河内町町長が、事件後に行なった記者会見で、「平成を迎えたばかりの日本の港町が、まるで、小さな戦争に巻きこまれたようだった」との談話を発表していたことから、「平成の港町戦争は、太平洋戦争と同じく、資本に勝る大企業が勝利した」と書きたてた。

おばけ工場の周辺に連盟が掲げた横断幕は撤去され、工事業者が、だれにも阻止されることなく現地入りした。

これから、およそ一年半の時をかけて、センチュリーWADA大河内町店が開業する。その予定だった。

だが、戦いは、意外な形で結末を迎えた。

連盟が解散してから、十二日後の十月二十五日、和田コーポレーションと証券会社役員との間にあった癒着事件が発覚した。これは、和田コーポレーションのトップと証券会社の一部の役員が、結託して損失をかくし、不当に株価をつり上げていたもので、影響は、海外の投資家にまで波及した。

その後、十一月六日には、粉飾決算を承知の上で融資を続けた、大手銀行の不正も明るみになり、和田コーポレーションは、銀行への便宜をはかった大物政治家ともども、激しい世論の糾弾にさらされることになった。

日本中の注目を集めた、センチュリーWADAの大河内町出店は、この事件をきっかけに、あっけなく挫折した。

結果的に大逆転の勝利を手にした、大河内町の二つの商店街の住民は、天罰が下ったのだとうわさしあった。

健二は、そうしたうわさを苦々しい思いで聞いていたが、それは、内藤家全員の共通した気持ちだった。

すっかり体調の戻った作蔵は、しきりに、美雪の様子を健二に聞いた。健二が以前と変わりないと伝えると、少しは安心した様子だったが、それでも、二三日もすれば、また同じ質問をくり返すといった具合である。

作蔵は、心配していた。

「健二、センチュリーWADAの出店が取りやめになったということは、あの子の家も、どうなっていくかわからんぞ。もともと、そのために、この町へやってきたのだからな」

たしかに、作蔵の言うとおりだった。

学校での美雪は、それらしいそぶりを少しも見せなかったが、他人に自分の弱みをけっして見せない、彼女のことである。本当は、深刻な事態におちいっているのかもしれない。

美雪は、よく健二に声をかけてくるようになった。以前のような、とげとげしい接し方ではなく、別人のような明るい態度だった。

健二も、美雪と話をするのが、いやではなかった。

けれども、美雪の家の状況を聞き出す勇気は、どうしてもわいてこなかった。聞けば、いちばん聞きたくない答えが返ってきそうで、こわかったのだ。

表面的には、美雪は、すっかりクラスに、そして、大河内町そのものに溶けこんだかに見えた。

そんな、ある夕暮れのことだった。

バットを片手に、淀浜公園に素振りの練習に出かけた健二は、すみのベンチに、ひとりの男の姿を見つけた。

顔を反対に向けていたので、気にもとめなかったが、しょんぼりとまるめた背中が、だれかに似ていると思った。

健二は、素振りをはじめてすぐに、それが、美雪の背中だったことに気がついた。

買いもの袋を片手にさげて、西団地の中へと消えていった美雪の背中。健二は、淀川の河川敷から見上げた、かつての光景を、まざまざと頭に思い浮かべた。

(美雪のおやじ・・・?)

まちがいなかった。上条聡史は、暴動の傷跡も生々しいままのおばけ工場を、ぼんやりとながめていた。

その様子は、多くの部下を従えて陣頭指揮をとっていた時とは、別人と見まちがえるほど、小さく頼りなく見えた。

健二は、声をかけるべきか迷った。つい先日までは、主張の異なる敵同士として、おばけ工場をめぐって対立していた相手である。

けれども、暴力沙汰をおこした和助を訴え出なかったのは、この聡史だった。美雪の求めに応じて、こっそりと、おばけ工場の裏戸の鍵をはずしておいてくれたのも、同じく聡史である。

「あの・・・」

思いあまったすえに、健二は、ようやく声をかけた。聡史は、われに返ったように、こちらへ顔を向けた。

「はい?」

「上条美雪さんの、お父さんですよね?おれ、内藤健二といいます。美雪さんのクラスメイトです」

健二がそう言うと、聡史の目に光がさした。

「ああ・・・。ああ、そうですか。君が内藤くんですか。話は、いつも美雪から聞いています」

健二は、少し緊張した。美雪が自分のことを父親に話していると、弘樹から聞いてはいたが、どんなふうに話しているのだろうと思った。

「おじいさんの具合は、どうですか?お元気にされてますか?」

「は、はいっ。元気です。元気すぎるくらいです」

「そうですか。それは、よかった」

健二が驚いたのは、聡史が子供の自分に敬語で話しかけてくることだった。今まで、こんなに、物腰の丁寧な大人を見たことはない。

「娘が、ずいぶん世話になっているようですね。本当にありがとう」

「いえ、世話になったのは、おれたちの方です。おかげで、じいちゃんが助かりました」

健二は、いつの間にか、直立の姿勢で答えていた。怒られているわけでもないのに、そうしなければならない気がしたから不思議だ。

「あの、そこで何をしてたんですか?」

健二が質問すると、聡史は照れたように笑って、

「大河内町へ来てからのことを、いろいろと思い出していました」

と言った。

「まだ一年もたっていないが、娘が日に日に明るくなっていくのが、うれしくてね。今までは、学校のことなど何も話さなかった美雪が、毎日のように語ってくれるんですよ。今日は、こんなことがあったってね」

健二は、弘樹が聡史から聞いたのは、この話だったのだと思った。

聡史は、続けた。

「キャンプから帰ってきた時は、本当にうれしそうだった。あとから聞けば、ずいぶん大変なことがあったようだが、美雪は、初めて自分を守ってくれる人に出会ったって大喜びでした」

その美雪を守ったというのは、健二をはじめとする、クラスメイトたちのことだったのだろう。

健二は、自分が恥ずかしくなった。あの時は、貞行たちの態度に腹が立ったからであって、美雪のためにケンカをしたわけではない。

でも、考えてみれば、やはり、あれは美雪のためだったのかもしれない。美雪が、ほかの人間から責められていることに、がまんがならなかったのだ。

「ここの人たちはいい。みんなが、自分たちの町に誇りを持っている。最近は、郷土に愛着はあっても、誇りを持っている人は少ない」

聡史は、健二に語りかけるというよりも、自分を納得させているかのようにつぶやいた。

「でも、おれたちのせいで、出店ができなくなったんじゃないですか?」

「いや、出店が中止になったのは、内部事情によるものです。君たちのせいではありません」

聡史は、ベンチの空いている場所を健二にすすめた。健二が腰を下ろすと、おもむろに、おばけ工場を指さした。

「あそこが、稼動していたころのことを知っていますか?」

「・・・まあ、三年前くらいに閉鎖になったから」

「どんなものも、いつかは消えていくんですね。永久に続くものなど、ひとつもない。だから、今という時が大切なんでしょう」

「はい・・・」

「美雪にとっては、この町でのできごとが、とても大切なものなんだと思います。いつかは、消えてしまったとしてもね」

二人は、しばらくの間、だまっておばけ工場の廃墟をながめていた。

いつかは、消えてしまう。今あるものすべてが、いつかは、消えてしまうものなのだろうか?

生まれ育った町。自分を育んでくれた家族。いつまでも、いっしょだと思っていた幼なじみたち。そして、美雪という少女。

健二は、不思議だった。美雪の父親の言葉が、どうして、こんなにも胸に迫ってくるのだろうと思った。

聡史は、まるで、もう何十年も大河内町に住んでいる人のようだった。

もしかしたら、本当に大河内町を誇りにしているのは、外からやってきた聡史の方なのかもしれない。そう気づいた時、健二は、はっきりと感じた。

終わったのだ。戦いは、終わった・・・。

「消えないものも、あるかもしれません」

健二は、ポツリと言った。

なぜ、そんな言葉が口をついて出てきたのか、理由はなかったが、そうにちがいない。そうあってほしいと、健二は思った。

聡史は、じっと健二を見た。しばらくしてから、かみしめるように言った。

「そうか・・・。ありがとう・・・」

ジェット機の爆音が、遠く聞こえている。夕暮れの空に、ひとすじの飛行機雲が伸びていた。

「雨が近いかな?」

聡史は、顔を空に向けながら、目を細めて言った。その言葉に無言でうなずいて、健二もまた、遠ざかる飛行機の機影を見上げた。

飛行機雲が長く伸びると、雨が近い。昔、作蔵から教えてもらった観天望気を、聡史も知っていたことがうれしかった。

このまま、何も変わらなければいい。何も変わることなく、何も消えることなく、静かに時が過ぎてくれないものか。

健二は、自分でも知らないうちに、心の中でそう願っていた。

 

×    ×    ×

 

その夜、聡史の予想したとおり、大河内町に雨が降り出した。雨は、小さな雷鳴をともないながら、星のない暗い夜空から、しとしとと落ちていた。

健二は、明かりを消した自分の部屋にこもって、けやき通りのぬれた路面を窓からながめていた。もう一時間以上も、こうしている。

健二の頭からは、今日の聡史とのやりとりが離れなかった。

聡史は、いったい、何を言いたかったのか?聡史の言った「消えてしまう」という言葉が、どうしても、美雪と重なってしまう。そんなことは、絶対にあってはならなかった。

健二は、立ち上がった。勢いよく窓を開け放つと、ぬれたアスファルトのにおいとともに、湿った冷たい空気が部屋の中に吹きこんできた。

外の空気を吸えば、少しは気持ちも晴れるかもしれないと思ったが、その時だった。

ぼんやりとともる街路灯の下で、赤いかさをさした人影がゆっくりと動いた。同時に、クスクスと押し殺したような笑い声が聞こえた。

美雪だった。

「やっと、気がついた。もう、帰っちゃおうかと思ったわ」

「気がついたって・・・、そんなところで、何してるんだ?」

たった今、消えてしまうかもしれないと思った少女が、すぐ目の前にいる。健二は、うれしくなって窓の外へ体を乗り出した。

「あなたが、顔を出さないか待っていたの」

「おれを?」

「話さなきゃならないことがあって。言わないつもりだったけど、健二くんにだけは、伝えておきたかったの」

美雪は、初めて健二を名前で呼んだ。かさの下からのぞかせた、屈託のない笑顔が、どこか不自然に見える。

健二は、悪い予感が、現実になって襲いかかってきたのを感じて、ゾッとなった。美雪の言おうとしていることが、わかってしまったのだ。

「おい、待てよ!」

健二は、声を大きくして美雪をさえぎった。けれども、美雪は、動じなかった。

「わたし、また、転校するの。お父さんの仕事が、なくなっちゃったでしょ。だから、一度、本社のある東京に戻るんだって。そのあとは、どうなるんだろう?どこへ行くのかな?また、こんな町だといいな・・・」

健二は、頭から水を浴びせかけられたような気がした。やはり、自分たちがやってきたことは、まちがっていたのだと思った。

「言いたかったのは、それだけ。じゃあね」

「待てよ、いつ行くんだよ?」

「明日。もう、ほとんど荷物もまとめてあるの」

美雪は、吐き捨てるような調子で言うと、その場から立ち去ろうとした。健二は、あわてて、彼女の背中を引き止めた。

「なんだよ、そんなに、かんたんでいいのかよ?おれは、納得できないぜ!」

「・・・・・」

「おれに、怒りをぶつければいいだろ!初めて会ったころのようにさあ。おれたちのせいで、おまえは、この町から出ていかなきゃならなくなったんだぞ!」

美雪は、けわしい目をしてふり返った。

そうだ、いつものように、憎まれ口をたたけばいい。思いっきり、腹が立つような言葉を、おれにぶつけてこい。

健二は、そう思った。

けれども、美雪は、フッと表情をやわらげて答えた。まるで、わざとこわい顔をして見せたんだぞ、と言わんばかりに。

「言ったでしょ。健二くんに、怒りを感じたことなんてないって」

美雪は、ニッコリと笑った。笑いながらあふれ出た涙が、街路灯の明かりに照らされた彼女のほほを、ぽろぽろと伝っていった。

「わたしも、この町に生まれればよかったな。父さんと母さんがいっしょにいて、友達がいて。みんなで、また、キャンプに行きたいな。お祭りにも、出たかったな。そんなふうに、わたしもなりたかったな」

美雪は、涙をぬぐわなかった。そして、言った。

「ありがとう、健二くん。さようなら・・・」

「待て!待ってくれ!」

健二は、さけんだ。ころげ落ちそうな勢いで階段をかけおりると、かさもささずに、家の外へ飛び出した。

しかし、そこに、美雪の姿はなかった。

「美雪?」

降りしきる雨に打たれながら、健二は、まるで、幻でも見ていたかのように、呆然と立ちつくした。

「美雪、どこにいるんだ?ふざけるなよ!」

暗闇に向かって呼びかけてみても、美雪からの返事はなかった。

健二は、何も答えない美雪に腹を立て、何もできない自分に腹を立てた。腹を立てながら、猛烈なくやしさがこみあげた。

もっと、美雪の話を真剣に聞いてあげればよかった。まさか、こんな結末が待っていようとは、思っていなかったのだ。

それは、心のどこかで、センチュリーWADAの進出を食い止めるのは、不可能だと考えていたためかもしれない。

健二は、いつまでも、美雪がこの町にいてくれるような錯覚をしていた。

だが、それは、取り返しのつかない悲しいまちがいだった。

「頼むから、出てきてくれよ。なあ、美雪ィ!」

健二の泣くようなさけび声は、美雪には届かなかった。届いたかもしれないが、彼女が戻ってくることは、二度となかった。

雨が、はげしくなりはじめた。

ずぶぬれの健二は、冷たくなった自分の肩をわしづかみにして、けやき通りのはずれの暗闇を見つめた。

空が、青く裂けるように光った。

ドーンッという落雷の地響きが、まるでサイレンのように空へ広がりながら、足もとへ伝わってくる。

キャンプの時と、同じだった。

 

×    ×    ×

 

翌朝、教室にある美雪の席は、いつまでたっても、ポカンと空いたままだった。

美雪が登校してこない。健二以外のだれひとりとして、その理由を知る者はいなかった。

だから、朝のホームルームで、岡村先生から美雪の転校が伝えられた時の、クラスメイトの衝撃はひどかった。みんな、あっけにとられ、それから、何人かの女子が泣き出した。

健二は、弘樹のことがかわいそうでならなかった。

その弘樹は、マネキンのように無表情になり、その日一日、自分からは一言もしゃべろうとはしなかった。

健二も、あえて声をかけなかった。

「健二は、知ってたの?」

昼休みになると、今朝から会話をしていなかった若菜が、教室のすみにいた健二のとなりにやってきて、小声でたずねた。

さすがに、若菜は鋭かった。健二は、だまってうなずいた。

「そう・・・。そうだったの・・・」

若菜は、うつむいた。

「おまえは、知らなかったのか?」

「うん。上条さん、わたしには、何も言ってくれなかった・・・」

「それは、おまえを悲しませたくなかったからだよ。あいつは、若菜のことが大好きだったからな」

「上条さんが?彼女が、そう言ったの?」

「まあな。おまえのことを、素敵だってさ。あっ、これは美雪の言葉で、おれが言ったんじゃないからな」

健二が、少しおどけたように言うと、若菜は、一瞬泣きそうな顔になり、それから、こぶしを握って健二の頭にそっとあてた。

「ばか・・・」

教室は、どこか静かだった。美雪という存在を失って、クラス全体が、火が消えてしまったかのようだった。

放課後になると、昨夜からの雨が、ようやくやんだ。

健二は、一馬を誘って、まだ、所々に水たまりの残る校庭で、キャッチボールをはじめた。バッターもいないのに、一馬をすわらせ、一球一休に力をこめた。

「今日は、気あいが入ってるな。恋人との別れを、野球でまぎらわせようとしてるだろ?」

一馬に冷やかされて、健二は、むきになった。

「うるせーっ。だまっておれの球を受けろ!」

健二は、力まかせの球を投げた。ボールは、コントロールを失い、ジャンプした一馬のミットにおさまった。

けれども、一馬は、思いのほか真剣だった。

「おまえ、こんなことしていていいのか?学校には来なかったけど、上条のやつ、まだ、この町にいるんじゃないのか?見送らなくていいのかよ?」

思いがけない一馬の言葉に、健二は、ドキリとした。

一馬は、ボールを投げ返さなかった。

「あいつ、本当は、ここでのことを楽しんでいたんじゃないか?ずいぶん、生意気なやつだと思ってたけど、あいつは、いつも笑っていただろ?なあ、健二。あいつは、いつだって、楽しそうにしてたじゃねえか」

一馬は、真正面から健二を見すえながら、言葉をつないだ。

「走れよ、健二。まだ、間にあうかもしれねえ」

あとになって考えれば、健二のことをいちばんわかっていたのは、女房役の一馬だったのかもしれない。

健二の球を、ずっと受け続けてきた野球少年は、同じ野球少年である健二の胸の内を、その球の中に感じ取っていた。

「おれは・・・」

健二は、こらえていた苦しみを、吐き出さずにはいられなくなった。

次の瞬間、グラブを一馬に向かって放り投げると、「悪い、あとを頼む!」そうさけんで、走り出した。

背中から、一馬の声が追いかけてくる。

「健二、全力疾走だ!」

「おうっ!」

健二は、言われるままにした。学校から西団地まで、ただ、がむしゃらに走り続けた。

西日が、自分のまっ黒な影を、長く映し出している。その影を追いかけながら、健二は、美雪の笑顔を頭に思い描いていた。

そう、もう一度、美雪の笑顔が見たかった。一馬の言うとおりだ。今なら、ひと目だけでも、美雪に会えるかもしれない。

ところが・・・。

 

ようやく、西団地の美雪の家の前まで来た時、健二の期待は、あっけなく裏切られた。

そこには、もう、東京からやってきた親子の姿はなかった。ドアには鍵がかけられ、マジックで書かれた上条という表札も、なくなっていた。

健二は、よろけそうになりながら、強くドアをたたいた。

「美雪っ、美雪!」

返事は、なかった。

動かなくなった電気メーターを見上げると、まるで、時間までもが、止まってしまったかのように思えた。

「おれは、バカだ・・・」

健二は、汗だくのこぶしを、冷たいコンクリートの壁に打ちつけた。

間にあわなかった。いつだって、大切なことは、伸ばした指の間から、すうっと逃げていく。あわてて追いかけてみても、けっして、つかまえることはできない。

(若菜、やっぱり、おまえが正しかったよ。おれは何もわかっていなかった・・・)

健二は、思った。バカでバカで、どうしようもなく鈍い自分。いら立ちをたたきつけるように、壁をなぐりつけていると、むなしさだけがこみ上げてくる。

そんな健二の目に、ドアの郵便受けから、半分だけ顔を出している白いメモ用紙が、ふと、飛びこんできた。配達された手紙とは、ちがっている。

思い切って引っぱり出してみると、二つに折りたたんだ用紙の裏に、「健二くんへ」と書かれていた。

美雪だ。

中には、ただひと言だけ記されてあった。

「ありがとう。大好きだよ」

健二は、雷に打たれたように思った。

美雪は、健二がここへやってくるとわかっていた。そして、健二に何も言わせないまま、遠くへ行ってしまった。

胸が、しめつけられるように苦しくなった。

(あいつ、また、勝ち逃げしやがって)

 美雪は、いつだって一方的にものを言って、そのままいなくなってしまう。こちらの返事を聞こうとしない。

「おれにも、しゃべらせろよ!おまえは、最後までむかつくやつだ・・・」

健二は、そう言いながら、鼻の奥にツーンと痛みを感じた。

もう、がまんの限界だった。こらえていた涙が、せきを切ったかのように、あとからあとからあふれ出してきた。

「なんでだよ?なんで、こんなにさみしいんだよ。おまえがいなくなって、ほっとできると思ってたのによ。どうして、こんなに涙が出るんだよ?」

健二は、大声で泣いた。ずっと、こうしたかったのだ。美雪のために、思う存分泣いてみたかった。

今は、すべてがわかる。なぜ、大河内町に引っ越してきたばかりの美雪が、健二たちに、ケンカを吹っかけるような態度でのぞんだのか。

美雪は、だれかに自分をおぼえていてほしかったのだ。いやなやつと思われてもいい。憎らしいやつと思われてもいい。母親を亡くし、転校ばかり続けたせいで、ひとりぼっちになってしまった上条美雪という少女を、どんな形であっても、だれかにおぼえていてもらいたかった。そして、そんな美雪の行動に、いちばん反応したのが、健二だった。

どうして、こんなふうにしか出会えなかったのだろう?

もっと早くに、もっとちがう形で出会えていたなら、こんな別れを経験せずにすんだかもしれない。

「そのあとは、どうなるんだろう?どこへ行くのかな?また、こんな町だといいな・・・」

美雪の言葉が、健二の耳の奥によみがえった。

それは、美雪の本当の気持ちだった。美雪は、心から、この大河内町を愛していたのだ。

「ちがう、ちがうんだよ。こんな町、どこにもないよ・・・」

健二は、しゃくりあげながら、今は、もう声の届かない美雪に語りかけた。

「だから、帰ってきてくれよ。ここは、おまえの町なんだぞ」

自分の言葉に、今、心から納得した。

美雪には、この町が似あっている。わずかな期間しか、いられなかったかもしれないが、大河内町こそ、彼女のもうひとつの故郷なのだ。

西団地からのぞむ町なみが、涙でかすむ健二の瞳に焼きついていた。夕日を浴びて、何もかもが赤い。

健二は、負けたと思った。負けてうれしいこともあるのだと、初めて知った。

あんなにも憎々しく思っていた美雪を、いつの間にか大好きになってしまうなんて、完敗もいいところだ。九回裏に、サヨナラホームランを打たれたようなものだった。

けれども、それは、健二に限ったことではなかった。

美雪がこの町を愛し、健二たちを愛したように、美雪を知るだれもが、彼女のことを愛していた。

それで、よかった。

それが、いちばん正しい終わり方だった。