3.作蔵と和助

健二は、夏が好きである。いつから好きだったのかはわからないが、気がついたら、自他ともに認める夏男になっていた。

夏になれば、祭りや海水浴にも出かけられるし、セミが鳴いているというだけで、わけもなく気持ちが明るくなる。

海も山も鮮やかな光を放ち、時には、台風が来たりするけれど、何もない殺風景な冬にくらべたら、毎日が楽しくてしかたない。

それに、もうひとつ、大きな理由があった。夏は、甲子園の季節なのだ。

将来は、高校球児となって、甲子園を目指すつもりでいる健二にとって、これほど胸を熱くさせるものはない。

もちろん、甲子園には春の選抜大会もあるが、やはり、出場したいのは、夏の大会である。テレビやラジオから流れ出す野球中継を聞いているだけで、それが、どこのチームであろうと、浮き足立ってしまうのだから、なかなかの重症かもしれない。

もっとも、バッテリーを組んでいる一馬も、健二と同じで、中学に入ったら、二人で実際の甲子園を見に行こうと話しあっているくらいである。

時には、若菜までが、「その時は、わたしも、いっしょに行きたい」などと話に乗ってきて、

(ああ、おれのまわりにいるやつらは、みんな、夏が好きなんだな)

と、健二は、つくづく思ってしまう。

けれども、その大好きな夏がやってくるまでには、もう少し時間があった。

雨。雨。雨・・・。

本当にいやになるくらい、毎日、雨が降り続いている。

梅雨前線が北上し、けやき通りにも、アジサイが咲く季節がやってきた。空気は、じめじめするし、太陽は、厚い雲にはばまれてなかなか顔を出してくれない。

グラウンドが水浸しで、野球の練習も満足にできなかったりするから、さすがの健二も、暗い気持ちになってしまう。

だが、暗くふさぎこんでいるのは、健二の心の中だけではなかった。

けやき通り商店街もまた、どことなく重い空気に包まれていた。原因は、言うまでもなく、センチュリーWADAの出店問題である。

昨年の十月に、けやき通り商店街組合と駅前通り商店街組合が、合同で、センチュリーWADA出店反対連盟を発足させて以来、和田コーポレーションと連盟の主張は、一歩も歩み寄ることなく、平行線をたどっていた。

和田コーポレーションによる、大河内町住民への第一回説明会は、怒号と野次が飛び交う、すさまじいものとなった。

その後、連盟の代表が、和田コーポレーションの東京本社へおもむき、出店計画の見直しを求める嘆願書を提出。相手からの返答がなかったため、健二も参加した四月二十一日の抗議集会へと続くわけである。

しかし、こうした連盟の動きは、和田コーポレーションの態度を、かえって硬化させていた。

六月一日、和田コーポレーションは、突如として、おばけ工場、つまり、センチュリーWADA建設予定地の測量を開始した。これは、連盟にいっさい通告せずに、和田コーポレーションが行動をおこした、最初のできごととなった。

これに対し、連盟は、猛烈に抗議。ついには、連盟に所属する一部の住民が、バリケードを突破して工事関係者と激しいもみあいとなった。事態は、警察の出動騒ぎにまで発展し、翌日の朝刊に大きく報道された。

しかし、問題は、それだけで終わらなかった。

この騒動の九日後の六月十日、駅前通り商店街の一部の住民が、連盟の了解なしに和田コーポレーション本社に乗りこみ、警察に拘束されたのだ。

幸い、和田コーポレーション側が被害届を出さなかったため、逮捕にはいたらなかったが、それでも、連盟のイメージダウンは、避けられなかった。

連盟の最高責任者である、けやき通り商店街組合の組合長、小林繁治は、窮地におちいった。

連盟の人々は、連日のように、けやき通り公民館や駅前通り公民館へ集まり、対策を検討したが、事件をきっかけとして、警察や県、それに地元商工会までが、和田コーポレーション寄りになっていく現状を打破するアイデアは浮かばなかった。

作蔵も、連盟の役員のひとりとして、けやき通り商店街の家々を激励してまわった。

作蔵は、駅前通り商店街組合の連中に対して、歯がゆいものを感じていたようである。過激さでは、だれにも負けない作蔵だが、センチュリーWADAの出店問題に関しては、あくまで合法的なやり方を望んでいた。

「駅前通りのやつらは、バカだ。この国で、あんなことをして意見が通るものか。事態を真剣に考えていない証拠だ」

作蔵は、家族の前で、よくそんな愚痴をこぼした。そして、そんな作蔵の働きのおかげで、けやき通り商店街組合からは、無謀な行動をとる者は、ひとりも出なかった。

だが、策略にかけては、和田コーポレーションの方が一枚上手だった。

六月十七日に開かれた、住民への第二回説明会が決裂すると、和田コーポレーションは、連盟の結束力に乱れが生じたこの時をねらって、思いがけない提案をしてきた。

それは、地元商店を、通常よりも好待遇でテナントとして受け入れるというもので、どういうわけか連盟には通達せず、個々の商店に話を持ちかけてきたのである。

けやき通り、駅前通りを問わず、両商店街に動揺が走った。

だれもが、口ではセンチュリーWADAの出店に反対しているものの、内心、集客力を見こめる巨大ショッピングセンターでの店舗展開には、大きな魅力を感じないわけにはいかなかった。

初めのうちは、連盟の会合で、そのことを口に出す者はいなかった。しかし、うわさは、自然と広まるものである。

事実を耳にした会長の小林繁治は、とうとう、ある日の会合の中で、みんなに問わざるをえなかった。

「ここにお集まりのみなさんの中で、センチュリーWADAへのテナント出店を依頼されたという方がおりましたら、名乗り出てください。もちろん、これは任意です。あとから、個人的におっしゃっていただいてもけっこうです」

息のつまるような、重苦しい空気が公民館にただよった。

作蔵は、会長の話に耳をかたむけながら、和田コーポレーションの汚いやり方に憤りを感じていた。

これは、離間工作である。連盟という組織を中心に結束している大河内町住民を、内側からゆさぶろうとしているのだ。

テナント出店を依頼された店と、そうでない店、双方が入り乱れれば、組織の結束力にほころびが生じる。

作蔵は、手を上げて立ち上がった。

「会長、あんたが、そんな弱気な姿勢でどうする?わしの店には、そんな依頼は、一度も来ていないが、もし来ても、わしは断るつもりだ。みんなも、そうだろう?テナントに入れば、高いテナント料を払わされる上に、店舗運営のあり方は、センチュリーWADAの方針に従わなきゃならん。従えなければ、契約違反で追い出されるだけのことだ。こんな、見えすいたわなにだまされるような弱虫は、この町にはひとりもおらんと、わしは信じとるが・・・」

作蔵は、あえて強い調子で言ったのだった。作蔵からこんな言い方をされれば、たとえ、テナントに入りたいと思っていても、かんたんには口に出せない。

だれかが口に出せば、たちまち世論が作られて、連盟の存在を脅かしかねないと考えた作蔵は、会長を責めることによって、逆に会長の立場を守ったのだった。

結局、この時は、連盟の中でテナント問題が表面化することはなかった。

しかし、それでも、連盟の勢いは大きくはばまれた。そのことがはっきり現れたのは、定期的な会合への住民参加の減少である。

ここでも、作蔵の働きによって、けやき通り商店街の組合員は、まじめに会合に通い続けた。

姿が見えなくなったのは、駅前通り商店街の人々である。これには、さすがの作蔵も弱り顔になった。

「やはり、駅前通りの連中は、和田コーポレーションの手口に引っかかったか。こうなると、こちらからも、造反する者が出かねないぞ」

ある日の夕時、小林繁治からの電話を受け取った作蔵は、受話器を置くと同時に、腕組みをして立ちつくした。

「どうしたんですか、お父さん?何かあったんですか?」

店の調理場のあとかたづけをしていた鈴子が、仕事の手を休めてたずねた。

「源三郎のところに、駅前通りの何件かが、和田コーポレーションから話があったことを伝えたらしい。連中、だいぶ、そそのかされているようだ。連盟から抜けたいと言ってるんだとさ」

作蔵の言う源三郎とは、駅前通り商店街組合の組合長で、連盟の副会長もやっている大熊源三郎のことだ。

「おかしなのは、連盟からは抜けたいくせに、組合には残りたいと言ってることだ。やっこさんたち、びくびくしながら、あまい汁だけはすすりたいんだろう。まったく、筋の通っていないやつらだ」

作蔵の不機嫌な様子に、義男も鈴子もだまりこんだ。その場にたまたまいた健二も、家中にただようまずい空気を感じた。

健二は、この時も、サイダーでのどのかわきをいやしていただけだったのだが、いつだって、とばっちりを受けるのは自分だとわかっていたので、そろりそろりと、二階にある自分の部屋へ退散しようとした。

「コラッ、健二!そんなものばっかり、飲んどるな。水を飲め、水を!炭酸で骨が弱くなるぞ!」

ほら来た!

いつものお約束で、何も悪いことをしていなくても、健二は、怒られる運命なのだ。

「サイダーくらいで、そんなことにはなんねえよ」

「野球やるやつは、腹と足腰を大事にしろ。いざという時に、力が入らないからな」

野球のこととなると、作蔵は、いつも、反論できないほどもっともなことを言う。

そもそも、健二に野球を教えたのは、作蔵だった。

実は旧制中学時代、作蔵は、キャッチャーとして、夏の県大会で準優勝したことがあるのだ。決勝で惜しくも敗れたが、作蔵の部屋には、そのころの仲間と撮った二枚の写真が、大切に飾られている。

一枚は、野球部全員で撮った集合写真。そして、もう一枚は、特に仲がよかった三人だけの写真。

ただ、作蔵は、なぜか、当時の話を人前ではしなかった。健二にさえしない。

夏の甲子園まで、あと一歩というところまで来た時のグラウンド。その暑さ。聞こえてくる大歓声。

健二は、その時の気持ちがどんなものであったか、よく作蔵にたずねるのだが、いつも、適当な話でごまかされてしまう。

そして、本当は大好きなくせに、作蔵は、甲子園大会のテレビ観戦を、あまりしようとはしない。

「いらっしゃい・・・ませ」

店に入ってきた客に反応した鈴子の声が、途中でつまった。

逃げ腰だった健二の目に映ったのは、作蔵に負けずおとらず、こわい顔でこちらを見すえているひとりの老人だった。

さすがの作蔵も、あっと息をのんだ。

「和助。めずらしいこともあるもんだな・・・。何か用か?」

藤村和助。けやき通り商店街で、その名を知らぬ者はいない。

けやき通りのいちばん東のはずれにある、藤村金物店の店主をしている和助は、作蔵と同じ年齢でありながら、もう、十年もひとり暮らしをしている。

奥さんは、ものわかりのいい上品な人だったが、その奥さんが脳梗塞で急逝してからは、もともとの寡黙な性格がさらに寡黙になり、近所づきあいもなくなった。

その和助が、ナイトウ洋菓子店にひょっこりと顔を出した。作蔵が驚くのも、無理はなかった。

「どうした?用事があって来たんだろう?」

作蔵の重ねての問いかけに、和助は、ようやく口を開いた。

「ああ、ひとつだけ確認しておきたくてな」

けっして、好意的とは言えない口調だ。

二人の間には、ほかの人間が入りこめないような緊張感がある。

それも、そのはずだった。作蔵と和助は、かつて、ともに甲子園を目指したバッテリーの仲なのである。

だが、グラウンドで苦楽をともにした昔の仲間は、今や、おたがいに反目しあう冷たい間柄になっていた。その理由を知る者は、ひとりもいない。

健二は、作蔵が旧制中学時代のことを話したがらない原因は、そこにあるのではないかと思っている。

和助は、言葉を続けた。

「駅前通りが、もめているらしいな」

作蔵の目が、見開かれた。

「おまえ、よく知ってるな。わしも、たった今、会長からそのことを電話で聞いたところだ」

「駅前通りは、統率がとれていない。このまま行けば、和田コーポレーションに、内側から崩されることになるだろう」

これまで、連盟の会合や抗議集会に、一度も参加したことのない和助である。その和助が、これほど詳しく連盟の状況を熟知していることに、作蔵だけでなく、その場にいた全員が驚きをかくせなかった。

「それで、おまえ、どうするつもりだ?」

和助は、低い声で作蔵にたずねた。作蔵は、肩をすくめて首を横にふった。

「まだ、わからん。今さら、駅前通りの引きしめを強化しても、よけい反発されるだけだろう。源三郎も、どうしていいかわからない様子だった」

「邪魔なやつらは、切り捨てるか?連盟から脱退しても、組合には残留したいやつらをそのままにしておけば、ほかに影響が出るんじゃないのか?」

和助のこの言葉を聞くと、作蔵の目の色が変わった。

それは、怒りともちがった。驚きともちがった。作蔵と和助、二人にしかわからない何かが、両者の間でぶつかった。

「何が言いたい?」

作蔵のうめくような問いかけが、健二の耳に届いた。

健二は、耳の奥でピーンと音のするような、張りつめた状況の中で、和助の次の言葉を待った。

しかし、和助は、なかなか話し出さなかった。遠くから、航空機の爆音が小さくとどろいた。

「言いたいことなど、何もない。おまえのやり方を、見せてもらうだけだ」

しばらくしてから、和助は、それだけを言った。ほかに、説明を加えようともしなかった。

それから、健二の方を見て「おまえも、野球をやっとるそうだな。作蔵の若いころに、よく似ている」と言った。

和助は、そのまま店から出て行った。いったい、何をしに来たのかわからなかった。

たまたま外出していた佐和子が、「ただいま」と言いながら、和助と入れちがえるようにして帰ってきたが、店にただよう異様な空気を、すぐに感じ取ったようである。

「みんな、どうしたの?何かあったの?」

だれも、答える者はいなかった。

どういうわけか、直後に店に入ってきた高田秀一に、みんなの視線がいっせいに注がれた。

「あっ、ど、どうも・・・」

間が悪すぎる。これでは、佐和子をつけてきたと疑われてもしかたがない。

本当に不運な男である。

 

×         ×         ×

 

だらだらとした、うっとしい梅雨の時期が終わりを告げると、遠くの山々から、セミの声が小さく聞こえてくるようになった。

ようやく、さんさんと輝く太陽が、大河内町に戻ってきた。健二の大好きな、夏の到来である。

健二とその仲間たちの様子は、相変わらずだった。

若菜は、いつも元気いっぱいで、健二をからかって遊んでいるし、そのうしろには、まるでコアラのように、川森恒子がくっついている。

増田弘樹は、どこかずれたことをやらかして、周囲のひんしゅくを買い、島村満久は、大きなおなかをゆらして、菓子ばかり食べていた。

一馬の野球好きは、誕生日に両親から新しいキャッチャーミットをプレゼントされたことで、さらにエスカレートした。

もちろん、健二も負けてはいなかったが、一馬といっしょに白球を追いかけていると、ふと思い出してしまうことがある。

美雪のことだった。

あの逆転ホームラン事件以来、美雪の健二に対する態度は、少し変わった。勝負に勝ったのは自分なのに、以前のように、健二をバカにすることもなければ、いやみを言うこともなくなった。鼻で笑うこともしない。

そのかわり、あまり話しかけてくることもなくなった。

健二にとって、それは、理想的な状況であるはずだったが、どこか、もの足りなさも感じていた。そんな、自分の気持ちが許せないから、健二は、時々、わけもなく不機嫌になることがある。

反対に、若菜は、このところやけに機嫌がよかった。理由は、夏休みに入ってすぐにある山間キャンプだった。

健二たちの通う大河内町小学校では、一年に一度、五年生と六年生による合同キャンプが行われる。場所は、バスでゆられて一時間くらいの山間にある「少年少女自然の家」だ。

少年少女自然の家は、県の教育施設で、この季節、各地の小中学校の生徒を受け入れている。

二泊三日のキャンプ生活は、五年生と六年生が、交代で一晩ずつ班ごとにテントに寝泊りし、もう一晩は、施設の集団部屋に寝袋をもって入る。

テント生活の時は、食事もすべて自炊。先生たちも、けっして、子供たちをあまやかさないから、自炊に失敗すれば、その班は、食事抜きのずいぶんみじめな思いをしなければならなくなる。

もっとも、若菜は、そういうサバイバルなところが大好きで、同じ班の川森恒子と、毎日のようにキャンプの計画に明け暮れている。

ちなみに、健二も若菜と同じ班で、そのせいか、二人の距離は、いつも以上にグッと近くなる。

日ごろは、一馬と過ごすことが多い健二も、近ごろでは、若菜の小間使いみたいなものだ。あれを用意しろ、これが足りないと、毎日のように命令されている。

けれども、そんな二人の様子を、横目でながめている人物がいた。美雪である。

美雪は、健二たちとは別の班に入っていたが、キャンプの計画でワイワイとやりあっている健二と若菜を、ひそかに見つめていることがあった。当の本人たちは、まるで気づかなかったが、そのことを指摘したのは、意外にも一馬だった。

「おまえ、あいつにほれられてんじゃねえのか?」

ニヤニヤと笑いながら冷やかす一馬に、健二は、つっけんどんに答えた。

「バーカッ、そんなはず、あるわけねえだろ!」

しかし、それからというもの、健二が何気なく美雪の方へ顔を向けると、おたがいに目があってしまうということが、度々あった。

あわてて目を背けてみるものの、なんだか、健二は落ち着かない。それが、ちょうど、若菜と話している最中だったりすると、いきなり頭から怒鳴られる。

「健二、あんた、聞いてんの!」

(まったく、おれのまわりにいる女は、どうして、こう、やかましいやつばかりなんだ?)

健二は、女という生きものが苦手だが、その原因は、目の前にいる若菜と新入りの美雪の二人にあると思っている。若菜によって下地を作られ、美雪によってとどめを刺されたというところだ。

ともかく、そんな毎日があわただしく過ぎ、一学期が終了。土日をはさんで、いよいよ、キャンプ当日となった。

若菜を中心に、あれほど念入りに計画を立てたというのに、その日の天気は、あまりよくなかった。

天気予報によれば、この三日間のうち、初めの二日間は、くもり。ただし、山間部では、雨になるかもしれないとのことだ。

健二が、パンパンにふくれあがった、大きなリュックサックを背負って家から出た時、空には、一面に雨雲が広がっていた。顔にあたる風にも、わずかな湿気が含まれていて、どこかで、すでに、雨が降りはじめているようだ。

「よお、健二。こりゃあ雨だぜ」

色のはげたバーバー大峰の看板の前で、妹の加奈といっしょに、健二が来るのを待っていた一馬は、開口いちばんそう言った。

「お天気のお姉さん、雨だって。みんな、かわいそうね」

おかっぱ頭の加奈は、今年、小学校に上がったばかりの一年生である。何をするにも豪快な一馬の唯一の弱点が、この歳の離れた小さな妹だった。一馬は、加奈の前では、いつもメロメロである。

「どうせなら、初めから大雨がよかったぜ。キャンプが中止になるくらいな」

健二がぼやくと、一馬が鼻で笑った。

二人とも、キャンプには、あまり興味がない。キャンプも楽しいことは楽しいが、二人にとっては、野球をやっている時がいちばんの幸せなのだ。

「そんなこと、言わないでよ。この三日間は晴れますようにって、てるてるぼうずに、ずっとお祈りしてきたんだから」

ひどく不機嫌な声に健二がふり返ると、これまた、大きなリュックサックを背負った若菜が、うらめしそうに口をとがらせていた。

そのうしろには、やはり、いつものように川森恒子がひかえていて、小さな声で「おはよう」と言った。

恒子のリュックサックは、若菜のものにくらべて、ずいぶん小さく見える。体力に自信のある若菜が、重い荷物を引き受けているからだ。

それは、健二にしても同じである。三日間分の米や鍋、鉄板などをつめこんだ彼のリュックサックは、まるで、バーベルのようなひどい重さだ。

やがて、増田弘樹や島村満久もやってきて、いつものメンバーが出そろった。

「一馬、勝手な行動をとって、みんなに迷惑かけるんじゃないよ」

店の中から、一馬の母親の大峰春枝が出てきて、息子に釘を刺した。あとから、ニコニコと愛想のいい笑顔で出てきた大男は、父親の裕次だ。

「みんな、気をつけてなあ。楽しんでくるんだぞ」

裕次は、息子の一馬とちがって、おっとりとした、やさしいおやじさんであるが、そこは、一馬の父親である。

センチュリーWADAの出店には、作蔵に負けないほど大反対で、その話題になると、性格が激変。以前、仕事場ではさみを持ったまま腕をふりまわして、出店に賛成する客に逆上したことがある。

「さあ、出発しましょ!」

リーダー格の若菜のかけ声で、一行は、大峰家の家族に見守られながら、大河内町小学校へと向けて歩き出した。

けやき通りから、潮宿場町と呼ばれる港に近い地域を通って、町の西の外れにある小学校を目指す。

学校が近づくにしたがって、両脇のさびついた家々がなくなり、灰色の大海原と沖合いの狐島が、左手にはっきりと見えるようになる。波が高いせいか、いつもは、威勢よく外海に飛び出している漁業協同組合の船団も、今日は、港の中で待機している。

校庭に入ると、数台の観光バスがすでに駐車していて、さすがの健二も気分が盛り上がってきた。

ところが、岡村先生が点呼をとると、ただひとり、美雪の返事だけがなかった。

「だれか、何か聞いてないか?」

岡村先生の問いかけに、美雪のいる班のだれもが首を横にふった。たちまち、クラス中に不安が広がっていく。

ほかの班のこととはいえ、健二と若菜も、顔を見あわせてしまった。完全主義者の美雪が遅刻をするなんて、あまり考えられないことだった。

バスの出発時間が、迫っていた。しかたなく、今いるメンバーだけでエンジンのかかったバスに乗りこむと、リュックサックの重さに足もとをふらつかせながら、美雪が校庭をかけてきた。

「すいません!遅くなりました!」

美雪は、岡村先生にペコペコと頭を下げている。

健二の目は、リュックサック以外の荷物を両手に持って、あとから追いかけてきた男に釘づけになった。

「あれ、上条さんのお父さんじゃないかしら?」

うしろの席に、恒子とならんですわっていた若菜が言った。

「おやじ?じゃあ、あれが・・・」

健二は、目をまるくさせた。

美雪は、父親がセンチュリーWADAの副支店長になるのだと言っていた。けれども、今、健二の目に映る美雪の父は、けやき通り商店街で暮らす人々の質素な生活を脅かすような悪者には見えなかった。

健二は、こっそりと頭の中に思い描いていたのだ。まるで、マンガにでも出てきそうなハデな金縁のメガネをかけて、大きなおなかをゆすって笑う典型的な悪役の姿を。

だが、自分たちと敵対しているはずの巨大企業の幹部は、見た目はどこにでもいる、どちらかというと、貧弱な中年の男にすぎなかった。

(あれが、本当に美雪のおやじなのか・・・?)

健二は、何度もまばたきをして、岡村先生と話している親子の姿を見つめた。いつもとちがって、あわてふためいた美雪の様子が意外で、健二は、肩から力が抜けていくような気がした。

「みんな、ごめんね。したくに手間取って遅くなっちゃった」

バスに乗りこみながら、美雪があやまると、「気にしない、気にしない」「ドンマイだよ、美雪」などと、あちらこちらから女子の声が上がった。

走りはじめたバスの車内は、お約束どおりのにぎやかさだった。みんな、期待と不安が半分ずつの表情をしながら、となりや前後の席どうしで、忘れものをしただとか、車酔いしそうだとか、勝手に騒ぎあっている。

そんな中で、健二のとなりにすわっている一馬はたいしたもので、バスが発車するとすぐに、もうグーグーと寝息をたてていた。

健二も、寝てしまおうかと思って目を閉じたが、どうも、さっきの美雪と父親のツーショットが、まぶたの裏に思い返されてしかたなかった。

初めての遅刻に動揺している美雪と、そのとなりで岡村先生とあいさつを交わしている父親。

何か変な感じがした。

健二には、その変なものが、とうとうわからなかったが、爆睡している一馬や、さっそく、おかしをほおばってご機嫌の島村満久の顔などをながめているうちに、どうでもよくなってしまった。

 

バスは、山間の曲がり道をくねくねと走り続けて、ようやく目的地に到着した。くもり空とはいえ、広い駐車場のまわりに生い茂る緑が目にまぶしい。

セミの鳴き声をひびかせた暑い空気が、バスから降りた健二たちを、もわっと包みこんだ。