7.最後の一球

藤村和助が、警察に連行されたとのニュースは、瞬く間に、けやき通りと駅前通りの両商店街に広がった。

和助は、さんざん警官隊に抵抗したあげく、パトカーで護送されていった。

事件の一部始終を目撃していた、健二の驚きは、大きかった。

なぜ、和助は、あんなことをしたのだろう?今まで、連盟や組合の会合に一度も参加したことのない和助が、何を思って、あんな大それた行動に出たのか?

しかし、和助が、美雪の父親の聡史をなぐったことで、冷静さを失っていた連盟の男たちが正気に返ったのは、たしかだった。

事実、暴動になりかけていた連盟の抗議行動は、和助の連行をきっかけに、急速に沈静化した。

和田コーポレーションも、事態を深刻に受け止め、工事の開始を遅らせる決定を下した。両者、痛み分けといったところだった。

事件のあと、健二は、作蔵とナイトウ洋菓子店に引き上げた。一馬、弘樹、満久の三人も、それぞれの父親と家に帰っていった。

全員が無事だったが、弘樹だけは、ころんだ時のはずみで顔にケガをした。たいしたケガではなかったが、健二は、ひどく落ちこんだ。自分のせいで、仲間をひどい目にあわせてしまったと思った。

しばらくすると、福引のマスコットガールを終えた若菜が、ナイトウ洋菓子店にかけこんできた。

「おじいちゃん、だいじょうぶ?大変なことになったって聞いたけど」

「おう、若菜ちゃん。わしらは、みんな無事だ。ほれ、健二のやつも、なんともないよ」

「・・・・・」

作蔵からそうなだめられても、若菜は、まだ、不安な様子をかくせなかった。階段にすわりこんでいた健二の前にやってくると、感情をおさえた口調で問いかけた。

「本当に、ケガしてないの?」

「おれはな。でも、弘樹が顔に傷を負った」

「顔?深いの?」

「ただのかすり傷だ。でも、おれが受ければよかった・・・」

若菜は、一瞬、ほっとした表情を浮かべた。けれども、安心した分だけ、すぐに怒りがこみ上げてきた。

「そうよ!あんたがついていながら、何やってたのよ!」

若菜は、けわしい目をして声を荒げた。

キャンプの時に続いて、今回も、健二たちと行動できなかったことに、若菜は、いらだっていた。

健二をはじめ、今までいっしょだった仲間たちが、自分だけを置いてどんどん先に行ってしまう。そんな不安とあせりが、めずらしく若菜を弱気にさせ、健二への怒りになったのだ。

健二は、顔も上げずに「悪かった」とだけ言った。若菜と口ゲンカをする気力は、少しも残っていなかった。

いつにない健二の落ちこんだ様子に、若菜の胸にも、むなしさだけが残った。もう、何も言えなくなってしまった。

その時だった。外出していた佐和子が、息を切らせながら、店に戻ってきた。

「小林さんが、警察に呼ばれたって!」

佐和子は、店ののれんをくぐるなり、さけぶように言った。

健二たちは、むちで打たれたように立ち上がり、おたがいの顔を見あわせた。連盟の最高責任者である小林繁治を、警察が逮捕したのだと思った。

「大変なことになった。わしも、警察に行ってみる」

作蔵が、顔色を変えて出かけようとすると、健二もそれに続いた。

「じいちゃん、おれもいっしょに行くよ。いいだろ?」

すると、もう、若菜もだまっていなかった。

「今度こそ、わたしも行くからね。健二がどんなにだめだと言っても、絶対に行くからね!」

案の定、鈴子は、これ以上、子供たちが事件に関わることには反対だった。

「お父さん、子供たちは、つれていかないでください。危険すぎます」

けれども、健二はともかく、今の若菜だけはおさえようがなかった。

「だいじょうぶだ。わしがついているから、何も心配ない。無茶なまねはせんよ」

作蔵は、そう言って鈴子を落ち着かせた。

「それなら、おれも行くよ。とにかく、警察で何がおこっているのか、確かめてこないと」

名乗り出たのは、義男だった。

鈴子の表情は、まだまだ不安げだったが、さすがに、作蔵と義男の二人がついているならと、納得はしたらしい。

佐和子によれば、繁治が出頭したのは、となり町にある米倉警察署だという。

さっそく、義男の運転する車に、作蔵と健二、それに、若菜が乗りこんで現場に急行した。

米倉警察署に到着すると、そこには、すでに連盟の顔なじみが集まっていた。作蔵は、一馬の父親である大峰裕次の姿を見つけて声をかけた。

「会長が出頭したと聞いたが、逮捕されたのか?」

「いやいや、どうも、逮捕とはちがうようです。中で何が行われているのか、さっぱりで」

「和助は?」

「今、取り調べの最中のようです」

まっ赤な空の下にたたずむ、灰色の警察署の建物を見上げて、だれもが途方にくれていた。窓に、西日が強く反射している。

「まったく、やっかいなことをしてくれたもんだ。連盟の会合にも、まるで顔を出さなかったくせに」

「どういうつもりなんだか・・・。この際、藤村金物店を、けやき通り商店街組合から除名するべきじゃないか?」

そんな声が、あちらこちらで聞かれた。しかし、作蔵は、こうした和助への批判には、否定的だった。

「健二。和助は、なぜ、あんな真似をしたと思う?」

「・・・わからないよ。和助のじいちゃんのことは、わからない」

「わしはな、こう思っとる。あいつのおかげで、わしらは救われたんだとな。あいつがなぐらなければ、わしたちみんなが、ああなっていたぞ」

作蔵は、つぶやくように、そう言った。

つまり、和助が、みんなの身代わりになったというのである。それは、和助のことをよく知る作蔵だから、言える答えなのかもしれなかった。

「和助は、そういうやつだ。あいつは、若い時から、何も変わっておらん」

「若い時って、甲子園を目指していたころのこと?」

「ああ、当時のあいつは、最高のピッチャーだったよ。あいつがピッチャーで、わしがキャッチャー。おまえと一馬のようなもんだ」

やはり、作蔵は、以前の作蔵ではなかった。和助がナイトウ洋菓子店に顔を出して以来、作蔵が甲子園の話をするのは、これが二度目だ。

「あいつは、仲間の面倒見がよくてな。後輩たちからも、いちばん慕われておった。あいつがいるだけで、チームは、楽しく明るくなった。それだけじゃない。やつの制球力のおかげで、わしらのチームは、どんどん強くなった」

作蔵の目には、甲子園を目指していた旧制中学時代の風景が、よみがえっているようであった。

きっと、作蔵と和助は、最高のバッテリーだったのだろう。それが、なぜ、現在のような関係になってしまったのか?

健二が、いちばん聞きたいのは、そこのところだった。

「おいっ、会長が出てきたぞ」

だれかが、警察署の入口を指差すと、そこには、小林繁治の姿があった。

やはり、逮捕されたわけではなかったのだと、だれもが胸をなでおろしたが、繁治のとなりに、もうひとりの老人がいるのを見て、人々は、思わず「あっ」とさけんだ。

藤村和助である。

和助は、繁治とつれだって、こちらに歩いてくる。人をなぐっておいて、なぜ、こんなにも早く釈放されたのか、健二たちには、わけがわからなかった。

「皆さん、ご心配をおかけしましたが、思いがけず、被害者から届出がなかったため、藤村さんは、釈放となりました」

繁治は、集まっていた人々に大声で説明した。それを受けた和助が、まるで、兵隊のように姿勢を正して一礼した。

「個人的な感情で、あのような事件をおこし、反省しとります。ここに、深くお詫びいたします」

なんと、和助が人前で頭を下げた。あの偏屈じじいで通っていた、藤村和助がである。

みんな、あっけにとられて声も出ない。和助を批判していた者たちも、決まりが悪そうに、顔を伏せてしまった。

そんな、周囲の様子を見かねた作蔵が、口を開いた。

「まあ、ともかく釈放されたんだ。わしらにとっては、願ってもないことだ。なあ、そうだろう、みんな?」

作蔵の呼びかけに救われたように、人々は、顔を上げてうなずいた。そして、「よかった」とか「そうだ、そうだ」などという声が、ちらほらあがった。

「これで、今回の騒ぎは、一段落しました。和田コーポレーションも、工事を中断したことだし、今日のところは、ひとまず家に戻っていただきたい。けやき通りは、とんだ秋祭りになってしまったが、明日からも祭りは続きます。みんなで商店街の活性化を目指して、がんばろうではないですか」

繁治がそうしめくくると、人々は、ようやく、安どの表情を浮かべ、それぞれの自宅に帰っていった。

作蔵は、繁治の肩をたたきながら言った。

「和助は、わしらの車で送っていくよ。繁ちゃん、今日は、ご苦労だったな」

「なあに、このくらいの騒動がおこるのは、いつだって覚悟しとるよ。問題は、これからだ。どうして、相手が被害届を出さなかったのか、不思議でならんよ」

「うむ・・・」

その点については、作蔵にとっても繁治にとっても、大きな謎であったろう。

だが、健二には、その理由がわからなくもなかった。

相手は、美雪の父親なのだ。娘の通う学校の同級生の中に、連盟の男たちの子供がいるであろうことは、想像できたはずである。だから、聡史は、被害届を出さなかった。

もしも、被害届を出したりしたら、学校で、娘がいじめにあうとでも思ったのだろうか?それとも、もっとほかの理由があったのだろうか?

 

車内では、和助は、一言も口をきかなかった。作蔵も、だまりこくったままだった。

義男は、ただ、ハンドルだけを握り続け、若菜は、ずっと怒ったような顔をしていた。健二と目があうと、若菜は、落ち着かないように視線をそらせた。

けやき通り商店街に着くと、思いがけず、和助が「少し、寄っていけ」と言った。

義男だけは、店が心配だからと、ナイトウ洋菓子店に戻ったが、作蔵と健二、若菜の三人は、シャッターのしまった藤村金物店の裏手にまわった。

「和助さんは、ここにひとりで住んでるの?」

若菜は、「和助さん」と名前にさんづけで呼ぶ。

「ああ、十年前に女房に先立たれてからは、ずっとひとりだ」

「さみしくはないの?」

「さみしいと言えば、さみしいが。若いころは、ひとり暮らしをしとったからな。炊事、洗濯、なんでもできるから、こまりはせんわい」

和助は、そう言ってニッと笑った。

何本か歯の欠けた和助の笑顔は、健二や若菜がびっくりするほど、人なつっこかった。作蔵が言うように、昔の和助は、明るく楽しい性格だったのかもしれない。

「まあ、上がっていけ。めったに客が来ることはない家だが、今日は特別だ。茶でも入れよう」

今の和助は、おばけ工場で大声を出していた和助とは、まるで、別人だと健二は思った。これまでの恐ろしいじじいという和助のイメージは、健二の中で急速にくずれていった。

「ここにやってきたのは、奥さんの葬式の時以来だな。もっとも、個人的に邪魔するのは、数十年ぶりということになるが」

作蔵が、キッチンのテーブルのいすに腰かけながら、低く言った。

「そうか、学生の時が最後だったからな。長い月日が過ぎたもんだ」

コンロの前で湯を沸かしていた和助も、しみじみと受け答える。

「どうして、急に、センチュリーWADAの出店問題に首を突っこもうと思ったんだ?」

「わしも、初めは、何かをしようなどと思っているわけではなかった。見かねたから動いたまでだ」

「わしのやり方が、今でも気に入らないのか?」

作蔵の問いかけに、少しの間、沈黙があった。

和助は、流しの前に立って何かを考えている。火にかけたやかんが、湯気をふきながらピーッと悲鳴を上げた。

「わしは、おまえになら、安心して球を投げられると思った。当時のおまえは、だれから見ても本物のキャプテンだったよ」

コンロの火を止めながら、突然、和助の話が変わった。

いや、二人の間では、初めから話題は同じだったのかもしれない。作蔵と和助は、数十年の時をさかのぼり、今、どちらも旧制中学時代に戻っている。

健二は、その緊迫した空気に、ごくりと生つばを飲んだ。

「だが、甲子園へ行くために、なりふりかまわなくなったおまえに、おれは反発した。おれの目指していた野球は、そういうものではなかったからだ」

「小磯のことか・・・」

作蔵の口から、これまで耳にしたことのない人物の名前がもれた。

すると、和助はふり返って、となりの居間に飾られた古い写真に目をやった。額に入れられた、野球部の集合写真とはべつに、三人だけで笑っている小さな写真が、本棚のすみにある。

ひとりは、もちろん和助。そのとなりにいるのが、作蔵。

そして、もうひとり。

健二には、思いあたるものがあった。同じ写真が、作蔵の部屋にもある。作蔵の言う小磯という人物が、そのもうひとりであることは、まちがいなかった。

「小磯は、おれなんかより、はるかに優秀なピッチャーだった。あんな事件がなければ、あいつがエースのまま三年の夏を迎えていたはずだ。それを、おまえは、切り捨ててしまった」

和助は、静かだが、深い怒りをこめた口調で言った。

「なぜだ?」

その問いに、作蔵は、しばらく答えなかった。

柱にかけられた、ふり子時計の単調な響きだけが、しんとした部屋の中で、やけに大きく聞こえる。

「あいつが死んだのは、おれのせいだと言いたいのだろう?」

ようやく作蔵が口を開くと、和助は、首を横にふって、「そうとは言っとらん」と否定した。

「そんなことは、言ってないぞ。ただ、他校のピッチャーをぶんなぐって、けがを負わせた小磯に対して、おまえは、わずかな情けもかけてやらなかった。あいつひとりに責任を負わせ、野球部から退部させ、そして、おれたちは、甲子園まであと一歩というところまで到達した」

まわりの連中は喜んだと、和助は続けて言った。

それまで、二回戦進出がやっとだったチームに、決勝進出というチャンスがやってきたのだ。

「だが、その一方で小磯はどうだったか?本来なら、自分が立つはずだった決勝のマウンドを、あいつはスタンドから指をくわえて見るしかなかった。おれは、背中にあいつの視線を痛いほど感じたよ」

「それは、おれも同じだ。しかし、おれは、おまえの球を受けることだけを考えた。ほかに何もなかった。おまえとなら、本当に甲子園へ行けると確信していたからだ」

「なぜだ?なぜ、小磯では、だめだったのだ?おれは、おまえが小磯を見捨てた時から考えを変えた。おまえは、チームを守ると言いながら、本当は、自分の身を守っていただけだ。だから、決勝での最後の一球、おれは、おまえの指示したボールをわざと投げなかった」

そして、打たれた。

打球は、見事な曲線を描いて、もんくなしの逆転ホームランとなった。敵味方、スタンドは、嵐のような歓声と悲鳴に包まれた。

まさかの結末。本当なら、勝てたはずの試合だった。

「なぜなんだ?」

和助の重ねての問いに、作蔵は、深いため息をついた。しばらく、湯のみ茶碗から立ち上る湯気をながめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「本当に知らなかったか?小磯の腕は、もうだめだったってことを。あいつは、二年の中ごろから骨肉腫に襲われていた。もう、球を握れなくなっていたんだ」

「・・・・・」

「医者はあいつに、近い将来、野球はできなくなると宣告した。野球どころじゃない。歩くことさえ、できなくなるんだ。だが、あいつは、キャッチャーのおれ以外には、一言もそのことをもらさなかった。他校との練習試合で、相手のエースピッチャーが、弱小だったうちのチームをバカにしているのを聞いて、怒りをおさえきれなくなったのには、自分自身に対する、やるせない思いがあったのだろう。小磯は、おまえにエースの座を譲りたがっていた。それが、甲子園へのたしかな道であると、あいつも確信していたんだよ」

作蔵の話を、和助は、身じろぎもせず聞いていた。強く握られたこぶしに、太く血管が浮き出ている。作蔵から初めて聞かされた小磯の話に、さすがの和助も、当惑をかくせなかった。

「そんな話は、聞いてないぞ・・・」

「やはり、そうか。小磯は、病気になったから、エースをおまえに譲るという言い訳をしたくなかったんだろう。いかにも、あいつらしいが・・・」

その小磯は死んだ。現在では、生存率が比較的高くなった骨肉腫も、当時は、患者の多くが死にいたる病だった。

小磯は、進学もあきらめ、三年後に他界した。他界しても、遺族から病名を明らかにされることはなかった。それは、本人の希望であったらしい。

しかし、真実を公にしなかったことで、小磯には、自殺したといううわさがつきまとうようになってしまった。

「なぜ、だまっていた?」

「それを言って、何になる?おれは、おまえがエースとなったことに、疑問など持っておらん。おまえは、小磯の代わりでエースになったんじゃない」

「そんなのは、きれいごとだ。おまえの言うとおりなら、おれのしたことは、なんだったのだ?甲子園への切符を自ら握りつぶして、小磯の夢を打ち砕いただけだったというのか?」

和助の声が、上ずった。

作蔵が最も恐れていたのは、まさにこのことだった。真実が明らかになることによって、和助は、自分を責めるようになる。

作蔵には、わかっていた。和助が、和田コーポレーションの幹部をなぐった本当の理由を。

あれは、かつて、小磯がやったことの焼き増しなのだ。和助は、作蔵の目の前で美雪の父親をなぐって、その判断を迫ったのだ。

さあ、どうする?小磯のように、おれを切り捨てるか?と・・・。

「きれいごとと言われれば、そのとおりだ。おれは、本音をかくしてきれいごとだけで生きてきた。だが、正直に言おう。小磯が暴力事件をおこした時、おれは、心の奥底でしめたと思ってしまった。これで優勝できるとな。握力を失いつつあった小磯に代わって、おまえが投げれば、優勝できる。おれは、おまえが考えているとおりの男だよ。勝つためになら、なりふりかまわない。しかし、今になって気づくようになった。それだけでは、問題は、解決しないとな。今度の反対運動もそうだ。どんなに連盟が気勢を上げたとしても、それだけで、和田コーポレーションのやつらが引き下がることはありえない。この戦いも、もうすぐ終わる・・・」

作蔵は、それきり口を閉ざしてしまった。和助も、もはや、言うべき言葉を持っていなかった。

二人のいつ終わるとも知れない深い沈黙に、健二と若菜は、途方にくれて、うつむいているしかなかった。

健二は、なぜ、作蔵が甲子園の話をしたがらなかったのかを知った。したくても、できなかったのだ。

学生時代の最後の夏におこった真実を明かせば、和助を傷つけることになる。そして、それは、自分自身の恥をさらすことでもあった。

健二は、野球を続けていくことのむずかしさが、ほんの少し、わかったような気がした。

作蔵の言うとおり、もしかしたら、近い将来、一馬と戦うことになるかもしれない。作蔵や和助のように、仲間同士で、つらい思いをしなければならなくなるかもしれない。

しかし、それを乗り越えなければ、本当の野球はできない。

甲子園への道は、果てしなく遠い。そこには、ただ、技術を磨くだけでは超えられない一線がある。

そして、健二は、今、ようやくそのスタートラインに立ったばかりのひな鳥だった。

 

×    ×    ×

 

夕刻になってから、健二たちは、和助の家をあとにした。

このまま、若菜を家に送るつもりだったが、本人は、いっしょにナイトウ洋菓子店に戻りたいと言った。今日一日、いろいろありすぎて、今は、だれかといっしょにいたいらしい。

三人そろって、ナイトウ洋菓子店ののれんをくぐると、そこには、思いがけない人物が待っていた。美雪だった。

美雪は、店のすみのいすに腰かけて、思いつめたような顔をしていた。

「何しに来た!」

健二は、自分でも思いがけず、大きな声を出してしまった。

被害届こそ出さなかったものの、和助になぐられたのは、美雪の父親なのである。わざわざ、一度も来たことのない、ナイトウ洋菓子店を探しあててきたからには、何か言いたいことがあるにちがいない。

「ここへ来ても、どうにもならないぞ。おまえのおやじをなぐったのは、おれたちじゃないんだからな」

健二は、冷たく言い放った。

もう、美雪とのもめごとは、うんざりだと思った。こちらだって、弘樹がけがをさせられているのだ。

ところが、美雪は、カッとなっている健二を悲しげにながめながら言った。

「ちがうの。父のことはいいの・・・」

「なんだって?」

「父のけがは、ほとんどかすり傷のようなものだった。たいしたことはないと言って、父は、被害届を出さなかったわ」

「・・・・・」

健二は、拍子抜けした。こみ上げていた怒りが行き場を失って、不完全な燃え方で消えた。

「上条さんはね、みんなに迷惑をかけたって、わざわざあやまりに来てくれたのよ」

佐和子が、なだめるように言葉を添えた。

美雪は、作蔵の前に深々と頭を下げると、大人のようなしっかりした口調で言った。

「上条聡史の娘です。今日は、本当に申し訳ありませんでした」

さすがの作蔵も、これには完全に気おされたようだった。

「どうして、あんたがあやまるのかね?なぐられたのは、あんたのお父さんじゃろう?」

「そうですが、父は、ああなってもしかたがないと言ってました。それに、なぐった相手は、本気で力を出していなかったと」

「・・・・・」

「父は、自分が出て行けば、かえって、もめごとが大きくなるからと、わたしを使いに出したんです。さっき、小林さんと大熊さんのお宅にも寄ってきました」

なぐられた本人の娘が、なぐった側へあやまりにきたなどという話は、聞いたことがない。健二は、納得がいかなかった。

「待てよ。待ってくれ・・・。おまえは、それでいいのか?おれたちに、怒りは感じないのか?」

さっきまで、連盟側のものの見方で息巻いていた健二が、今度は、美雪の側に立って意見を言っている。

つくづく、おれはいいかげんなやつだと、健二は、自分自身に思った。

「怒りなんて、感じないわ」

美雪は、さらりと言った。

「あなたたちに怒りを感じたことなんて、一度もなかったわ」

大きな黒いひとみが、まっすぐ健二に向けられた。

無理をして言っているのでもない。おだてようとしているのでもない。美雪は、本当に思っていることを、そのまま伝えようとしているだけだった。

「おじゃましました。失礼させていただきます」

言うべきことは言いつくしたと思ったのか、美雪は、みんなに向かってペコリと頭を下げた。

われに返ったように、鈴子が、ショーケースのケーキを、いくつか箱に入れてわたそうとする。

「ちょっと、待って。今、用意するから、ご家族に持っていってね」

美雪は、明るいライトに照らされた、美しいショートケーキに目を細めた。

「本当においしそうなケーキ。母さんが見たら、喜ぶだろうな・・・」

「そう言ってもらえると、うれしいわ。好きなものを選んでいいのよ」

「ありがとうございます。でも、いただけません」

「え?」

「お気持ちだけ、ちょうだいします。それだけで、十分です」

透きとおるような白い顔に、笑みを浮かべたまま、美雪は、けっしてケーキを受け取ろうとはしなかった。ただ、鈴子を見上げるそのまなざしには、笑顔とは裏腹な、どこか、せっぱつまったものがあった。

「すいません。勝手ばかり言って・・・」

美雪は、声を落として鈴子にわびた。鈴子は、空のケーキ箱を持ったまま、場をつくろうように言った。

「じゃ、じゃあ、また、遊びに来てね。その時は、ケーキをごちそうさせてもらうわよ」

「また、来てもいいんですか?」

「もちろんよ!今度は、お母さんも、いっしょにね。これからも、健二と仲よくしてあげてね」

美雪は、チラリと健二を見てうなずいた。そして、これまで健二が見た中で、いちばんの笑顔を浮かべた。

(母さんか・・・)

健二は、美雪の言葉を、頭の中でくり返していた。

美雪の家に母親がいないという予感は、まちがいだったのだろうか?

クルクルと万華鏡のように変わる美雪の表情からは、いつも、真実が見えてこない。だれにも助けを求めることなく、だれの世話にもならない。それが、彼女の生き方だとしたら、それは、悲しいことかもしれないと健二は思った。

 

美雪は、ひとりで帰っていった。

健二が表に出ると、遠く美雪のうしろ姿が、商店街の明かりの向こうに消えていくのが見えた。

若菜も、健二のあとを追うようにして、店から出てきた。

「あいつ、どうして、うちにまでやってきたんだ?あやまるなら、小林のおっちゃんと大熊のおっちゃんだけでいいだろうに」

健二の言葉に、若菜は、すぐには答えなかった。不審に思ってふり返ると、健二を見つめる大きな黒いひとみがゆれていた。

「本当にわからないの?」

意味ありげな若菜の言葉に、健二は、なぜかどぎまぎした。

「何がだよ?どういう意味だよ?」

若菜は、くちびるをかみしめた。そして、自身に言い聞かせるようにつぶやいた。

「わたしも、きれいごとだけで生きていくのはやめる・・・」

次の瞬間、若菜の大きなうるんだひとみから、一粒の涙がこぼれ落ちた。

それは、健二が生まれて初めて目にする、若菜の涙だった。

「あんたは、バカだよ。何もわかってない。バカでバカで、どうしようもなく鈍くて・・・。だから、わたしは、あんたが好きなんだ」